我が家の箪笥
考えごとをしていたのが悪かったのかもしれない。
ピーマンを切っていた直は、突然指先に火がついたような痛みを感じて叫んだ。
「痛っ」
「どうしたの?」
見れば包丁で切ったのか親指にみるみる内につうっと赤い筋が浮かび、それがにじんでこぼれ落ちていく。直はとっさに、夕飯のおかずが減ってしまう、と思った。
「やだ、ピーマンが」
「直さん!」
慌ててピーマンを洗おうとするのを、薫に苛立ちと焦りの混ざったような声で止められる。
薫に腕をつかまれるまで、直は間抜けにも左手から流れる血でまな板を染めながら右手でピーマンを集めていた。
薫はそんな直の手を引っ張って流しで傷を洗い、今度はぐいっと腕を上にあげる。迅速な動きだった。
「ごめん、ピーマンが」
「ピーマンは今いいから。それより手を心臓より上にして。傷口握って」
「あ、うん」
「止血しないと。今何か持ってくるから」
てきぱき指示を出して動く薫とは対照的に、直は未だぼうっとしていた。こんなふうに血が流れるほどの怪我をしたのは初めてで、痛みはあるが、全てに現実感がなかった。
血はどんどん溢れて、肘をつたって床にぽたりと染みを作る。赤い血が板の目に入ってしまうのが直にはとても不快だった。痛みからの逃避なのか、板の目に入り込んだ血の行方ばかりが気になって、その出所については薫が戻ってようやく思い出した。
「見せて。…止まりそうだけど、けっこう深いな…ちょっと我慢して」
薫は直の手を高くあげさせたまま、傷口を強い力でぎゅっと押した。
それから、無言で数分が過ぎた。
直はいまさらどくどくと脈打つような痛みを感じ始めて、自分の左手から目をそらした。
ふと、まな板の脇に見慣れない箱が置いてあるのが目に入った。
薫が持ってきたのだろうが、何なのだろうと首をかしげる。綺麗に包装紙のような紙が貼られているが、年期の入った物に見えた。薫の私物だろうか。
「…よし。止まった」
薫がほっとしたように呟いたので、直ははっとして礼を言った。
「あ、ありがとう。ごめんね、いろいろ汚しちゃった」
出血はかなり大量で、夕食のピーマンもまな板も床も、薫のシャツの袖までも赤く染め上げていた。
「そんなの、どうでもいいよ」
薫が首を振る。
「治療が先でしょ」
そう言って薫は、先程直が見ていた箱を開けて何かを取り出した。箱の中には、小さなチューブや消毒薬、それから包帯などが入っていた。薬箱だったのか、と直は思った。
「血は止まったし、薬を塗っておけば、病院は行かなくても大丈夫だと思うけど。どうする?」
「あ、うん。行かなくて平気…」
薫は軟膏のようなものを直の傷に塗ると、大きめの絆創膏でそれを覆った。それを終えると、彼女はふうと大きく息をついた。
「…今日はもう、台所は任せて、そっちで座っていて」
まだ少し固い声で、有無を言わせず直を居間に押し出すと、薫は台所に戻っていった。
さっきの箱を、茶箪笥の引き戸の中に閉まって。
直は、何も言えずにゆっくりその場に座り込んだ。
目が、茶箪笥から離せなかった。
この中には、今、あの薬箱がある。
ここに戻したということは、あれは祖母のものだということになる。
薫は、いつの間にあの箱のありかを知っていたのか。そんなものがあったことすら、直は知らなかった。絆創膏と虫刺されの薬だけは実家から持ってきていたし、それ以上が必要になることもこれまでなかったから、探したこともなかったのだ。
薫がここに住み始めてから彼女が怪我をしたという覚えもない。それなのに、わざわざ茶箪笥を開けてみたというのは不自然ではないのか。
それでも直の頭は、薫を擁護する理屈を捻り出す。
いや、こまめに家の掃除をしてくれている薫のことだ、偶然戸を開けて見つけても何もおかしくはない、と考えてみた。なにしろ女子力の高い大和撫子だ、ポケットから絆創膏をさっと差し出せるのと同じように、薬箱の位置だってしっかり覚えているのだろう。
そうだ、偶然茶箪笥の埃を拭いていて、引き戸の溝も拭こうとしたのなら。それで、ふと中を覗いて覚えていたのだとしたら。
──あの箱が、傍目に薬箱だと分かるならば。
「!」
気付いてしまった事実に、直は凍り付いた。
いくらなんでも、これは女子力が高いというレベルを超えていないか。
最初から中身を知っていたかのようだ。
思えば、彼女はこの家のことに異様に詳しい。
詳しすぎる。
「もうすぐ出来るからね」
台所から、普段通りの優しげな声が言う。
直は、その声に答えることが出来なかった。寒いのは、血を流しすぎて貧血気味のせいなのか。
──この人は、誰なんだ。
まるで、祖母が乗り移ったような。死んだ子どもの身体を借りて生き返ってきたような。
直は、この日、今まで疑いもしなかった薫の存在に疑問を抱いた。