我が家の庭に
二度目の仏間の整理のとき、直はそれまで手をつけていなかった仏壇の上に取りかかった。
今日は土曜日、薫は家庭教師のバイトで昼から居ない。彼女がいると、手伝おうと申し出られるので、これをバイトがわりとしている気楽な身分の直としては、申し訳なくなってしまう。それで、薫のバイト時間に合わせてやるようになっていた。
薫が戻ったら、一緒に夕飯を作ろう、と直は考えた。今日はカレーライスだと言っていたし、ニンジンの皮は包丁の背で、などと夕食を目の前にぶら下げて頑張ることにする。
仏壇には、真新しい祖母の写真が置いてある。直なりに水や花を供えていたが、薫が来て以来、毎日変えてくれて格段に綺麗になった。
その花や茶碗を下ろして、飾ってある細々したものを手に取る。
誰かのおみやげらしき小さな花ろうそくや、くす玉、可愛いあめ玉の入った瓶など、本来仏壇と関係ないものまで置かれている。家のなかはとてもすっきりと整頓されているから、大事なものは神棚か仏壇ということでごった返しているのだろう、と直は思った。いつかの宝くじまで出てきたことで確信した。
「大事なものだと思うと、捨てにくいなあ」
取り敢えず、期限のきれた宝くじ以外は、きれいな箱に入れて後でゆっくり考えることにした。
「あれ…」
直は、手にした小さな写真たてに気をとられた。
それは、祖母も先に亡くなった祖父も写っていないものだった。大事なものを飾るにしても、遺影に混ぜて生きている人間の写真を飾ることはないだろう。
「こんな親戚、いたようないないような」
庭をバックに縁側から撮った写真らしく、逆光気味の人の顔は少し分かりにくい。それでも、ショートパンツ姿で犬を撫でている子供が、紫陽花の前でにっこり笑っているのは見てとれた。
ショートカットのかわいらしい子で、どこか既視感かあったのだが、よくよく考えれば父方の親戚でこんな年頃の子はいなかった。それとも、案外古い物なんだろうか。直は写真を取り出してみた。
背面の留め具を軽くずらして開けると、硝子板に挟まれた写真が出てきた。裏面に鉛筆で小さく日付が書いてある。
10年前の6月だ。つまり、この子は生きていれば直と同じくらい年だったのだろう。
やるせなくなって、直は写真をしまい直した。人が亡くなるということ自体が悲しいのに、それが若い命となると、さらに切ない。祖母には自分の全く知らない人生があって、その中でまた悲しい別れがあったのだ、と噛みしめた。
「戻りました」
玄関ががらりと開く音がして、薫が帰ってきた。
「あ、おかえりー」
直は写真立てを立てて、玄関へ急いだ。
それから数日後のことだった。
直は、珍しく夜中まで課題をしていた。
この家に来てから、夜中に一人起きているのが少し怖くて、よびかりは治っていたのだが、そろそろ大学が休みに入るこの時期、学部の二年で授業をたくさんとっている直には、テストやレポートがたくさんあったのだ。
薫も同じ二年のはずだが、要領がいいのか、彼女はテスト勉強にもレポートにも困っているように見えない。
そういえば、授業でも会ったことがない、と直は気付いた。あのおしとやかで楚々とした薫が、実はさぼり魔なのだろうか。学部飲みで出会ったから当然同じ学部だと思っていたけど、と考えるともなく考えている自分に直は眉をしかめた。
「…お茶、飲も」
レポートの進みがはかばかしくないからとこんなふうに人のことを詮索し始めるなんて、と頬をひとつ叩いて立ちあがる。
冷えた麦茶でも飲んで頭を切り換えようと、台所へ向かった。朝作った麦茶を夕食後に冷蔵庫に入れておいたから、そろそろ冷えているはずだった。
この家の廊下は、乙女のささやかな重みにもきしきしと失礼な音をたてる。
寝ているだろう薫を起こさないように、直は比較的ましな縁側から回ることにした。
そうっと足音を忍ばせて歩いていく途中、雨戸が一枚開いているのが直の目に入った。
今夜は暑いから薫が開けておいたのか。ねっとりまとわりつくような、生ぬるい空気が入ってくる。
何気なく外を見た直は、悲鳴をあげかけた。
「…っ!」
庭に人影がある。
こんな時間に。
一体誰が。
思わずぐらりと後ろによろめいた足元の床がぎっときしんだ。
暗闇の中で、影が振り返り、そして立ちあがった。
「直さん?」
影は、聞き慣れた声で言った。
直は、それで影の正体を知った。
「あ、なんだ…薫さんか…」
そう思って目を凝らせば、長い黒髪を耳に掛ける薫のシルエットが暗がりに見て取れた。
「どうしたんですか?」
淡々と尋ねられて、直は必死で呼吸を落ち着けた。心臓がまだありかを主張している。どくんどくんと何かに叩きつけられるような衝撃が、薫にまで聞こえてしまいそうだ。
「お茶、飲もうと思って。…薫さんこそ、どうしたの?」
そう口にすれば、それこそどうしたの、とは自分の台詞だと思えてくる。
徐々に沸いてきた疑問と、驚かされたことへの不満を込めて見つめれば、薫は、庭の隅へと目をやった。
そこには咲き残りの紫陽花が植わっており、ちょうど先程薫がしゃがみ込んでいた場所だった。
薫は吐息を吐くように言った。
「…見ていたの」
その声は温められた庭先のぬるい空気と共に、ゆっくりと、直の耳へと届いた。
見ていたの。
音にして五拍の、一つの行為が、奇妙に胸に引っかかった。
直は、薫がいた場所をもう一度、見た。
塀と庭木に囲まれて、そこは見事なまでの暗がりだ。
おまけに街灯の明かりで逆光になって、立っている薫の顔も見えない。
見ていたの。
暗闇の中で、盛りをとうに過ぎた紫陽花をか。
直の顔にその疑問を見て取ったのだろう、薫は見えない顔でくすりと笑ったようだった。
「紫陽花じゃなくて、ね」
ぞくりと、直は背筋を震わせた。
紫陽花の、下。
うつむいた薫が見ていた先は、正確には土の方ではなかったか。
急に暑さを感じなくなった。
「や、やめてよぉ。何か怖いんだけどっ」
叫んだのは、緊張を解くためだったかもしれない。
「ふふ。ごめんなさい」
今度ははっきりと笑った薫は、すたすたと歩いてくると、突っかけを脱いで縁側へ上がった。
「おわびにお茶、持ってきますね」
ようやく見えた薫の顔は、いつもと変わらないように見えた。
台所へと消えた彼女を見送って、直はもう一度庭へ目をやった。
薫は、実際、こんな暗闇で何を見ていたのだろう。
そう思いながら、ふと気付いた。
あの、仏壇に飾ってあった写真。あそこに写っていた子どもを、直はどこかで見たことがあると思っていたが、あの子は、薫に似ていたのだと。
あの闇の奥に、写真と同じ、紫陽花がある。
「まさか、ね…」
ぞくりと、寒気が再び直を襲った。