我が家の暮らし
「ああ、また…」
直はそれを避けるように廊下の端をかに歩きする。
「直さん、荷物・・・あれ、どうしたんですか」
ちょうどそこに現れた薫は、蟹になったまま無言で床を指さす直に、ああと頷いた。それからつかつかと近づくと、躊躇なく虫を掴んで窓から捨てた。
「ありがと。助かった」
「いえ、どういたしまして」
薫にこうして虫を退治してもらったのは初めてではない。
最初に玄関から出られずに固まっていた直を見つけたとき、薫は何が起きたのか理解できなかったようだった。しかし彼女の視線の先に気付くと、おもむろに虫に近づいて素手で投げ捨てた。その美しい外見からはおよそ想像のつかない野性的な行動に、直は驚いた。しかし大層ありがたかったので、感謝と共にその意外性を喜んで受け入れた。
「本当に、なんでこんなに虫が多いんだろう。だって家の中だよ?奴らのテリトリーは外でしょ?」
「庭がありますからねえ」
なだめるように言う薫は、ここと同じくらいには田舎育ちだという。
街のマンション育ちの直は虫が大の苦手だ。それなのになぜ、ここに住んでいるのかといえば、それは運命のいたずらでもなんでもなく、単なる家庭の事情だ。
この家はもともと直の祖母が住んでいた家だ。
祖母は自立した人で、夫を亡くした後も、住み慣れた家のほうが良いと言って頷かなかった。そして誰の手を借りることもなく、結局最期までこの家で過ごした。
病院に入ったのもほんの数日。葬式は彼女の希望通りこの家で、ひっそりと行った。
そして、彼女の遺したこの家をどうするかという問題が残った。
祖母は生前、自分が死んだら家は処分して構わない、その代わり生きている間は好きにさせてくれと言っていた。
けれどここで、母が言った。
「あんたの大学、ここからの方がうちより近いじゃない。そろそろ一人暮らししてみたいとか言ってたし、ちょうどいいわね」
もしかしたら母は、大学を決めるときから、祖母の具合が悪くなるなど何かあれば、娘をかよわせようと計画していたのかもしれない。あとから考えれば、いやにこの大学を押していた気がする。
そのとき直はぎりぎり実家から通えるし、おしゃれな海辺の街の大学だと思っていただけだった。しかし、入学後たびたびお使いに出されることとなり、そして二年たった今、家と通学費用がもったいない、の一言によってここに住んでいる。
「薫さんの荷物、これだけ?」
直は小さい方の鞄をぶんどって聞いた。薫は死守した旅行鞄を肩にかけて苦笑している。
「ええ。取りあえずこれだけあれば暮らせますから」
薫が同居し始めて、一週間が経っていた。週末の休みを利用して薫が足りない荷物を持ってきたのだ。
実は彼女の実家はそう遠くないところだったらしい。これでは通勤時間も変わらないし、あまり実家を出た意味がなかったか、と申し訳ながる直だったが、薫はいつものように微笑みを浮かべた。
「私にとってはとても意味があるから、気にしないで」
やけに実感がこもった言い方だったので、気を使われたのではないと分かったが、もしかすると薫は家族とうまく行っていないのかもしれないな、と直は思った。
二人暮らしは順調で、直は薫との生活にとても満足していた。
暮らし始めてみて、分かったことはいろいろある。例えば直が一般的だと思っていたお風呂に一時間はかなり長いようだとか、目玉焼きに塩でなく醤油をかける人種は本当にいるのだということとか。それからこれだけ完璧な美人である薫が意外と自分の背の高さにコンプレックスを感じているらしいことも。先程の荷物の件も、手伝おうとした直に彼女は、自分の方が大きいし力があるから、とひどく遠慮したのだ。
何か、背のことで嫌な思いをしたことがあったのかもしれない。
ただ直は、それを聞くことはしなかった。話したくないことの一つや二つあるものだし、下手に突っ込んで薫を傷つけるのも嫌がられるのも嫌だったからだ。
薫には秘密主義なところがあった。
薫はたまに、直の質問を、にっこりと有無を言わせぬ笑顔でかわす。だから、直も最近は、薫にあまり彼女の生い立ちなどを尋ねないようにしている。
たまに秘密主義なところをのぞけば、薫はとても気持ちの良い同居人だったのだ。
トロいと人に言われることが多い直にも、薫はいらいらしない。直さんたら、と苦笑するだけだ。家主に気兼ねして無理をしているのかといえば、そういうふうでもなく、直があたふたしているとむしろ面白がっているようで、ぎりぎり間に合わないとなってから仕方ないですね、と助けてくれるのだが、少しだけ意地悪な目をしているのは直の気のせいではないだろう。若干腑に落ちない点はあるものの、助けられているのも事実、お互い無理をしていない方が良いのも事実だ。
それに、頼まなくても、薫はたびたび料理や洗濯をしてくれる。洗濯はさすがに下着は恥ずかしいのでお互い手洗いで、その他は一緒に回している。本当は交代でと思ったのだが、早く起きる薫が回してくれて、干すのだけ直も手伝うということがほとんどだ。食材の買い物は折半しようと決めてこれは守っているが、薫の料理は大抵家の戸棚に眠っているものを使った品で、家計にも身体にも優しいのが嬉しかった。
「あ、これ美味しい」
「ニラですか?これは、裏庭に生えていたの」
未だに質問のときなど敬語が混ざる薫だが、それでもかなり打ち解けてきた。
「へええ。食べられる物も植わってるんだ」
「ええ。この茗荷も、庭のもの」
直に感心されて少し誇らしげに、薫は冷や奴の上の薬味を指さした。
「すごいね。薫さんは、何でも知ってるね」
「そんなことないよ。ただ、こういうことは昔教えてくれる人がいたから」
「私にもそんな人がいれば良かったのになあ」
「…こちらに住んでいたお祖母様なら、教えてくれたんじゃないですか?」
台所の味噌樽へ目をやりながら、薫が首を傾げた。
「それがねえ。うちの父親、実の親なのにおばあちゃんと仲良くなくって。だから、私もあんまりここで過ごした思い出ってないんだよねえ。大学に入ってから、母親から何度か届け物させられて来るようになったけど」
私は結構好きだったんだけどね、と直はぱりっとたくあんを噛みしめた。
「おばあちゃんが死んでからの方が、ここにいる時間って長いんだ」
「そうだったんだ」
薫は静かに相づちを打つと、後は黙って食事を続けた。
直はぼんやりと部屋を眺めた。
味噌の臭い、手作りの沢庵の臭い。
あまり天井の高くない和室の先の縁側は開け放されて、庭からまっすぐに外の空気が入ってくる。薫が来るまでは開け閉めを面倒がっていた木製の雨戸は朝夕きちんとあるべきところへ収まって、今は広々と庭が見渡せる。
ふいに、直は、祖母が戻って来たような気持ちになった。けれど顔をひねれば、向かいに座っているのは背中の曲がった白髪の老婆ではなく、長い黒髪を背中に垂らした若々しい娘だ。
ーー誰。
一瞬浮かんだ疑問を、直は慌てて頭を振って追い払う。
祖母じゃないことに驚いたなんて、そんな失礼なことを薫には言えない。
直にとって、薫はすでに生活の一部になっていた。
「今度、一緒に韮を摘んでみる?」
薫の提案に、直は即座に飛びつく。
「やりたいやりたい。あ、でも虫が出たら、薫さんお願いします」