我が家の客人7
「本当に、ありがとう!」
ぶんぶんと両手が振られる。
「君がこの子を救ってくれたと聞いたよ。本当に、なんとお礼を言えばいいか」
「いえ、僕は…」
「君がいなかったら、今ごろ私たちは一人娘を亡くしていたかもしれないんだ」
興奮が押さえられない父親に、直は呆気にとられていた。
薫を殴らせてなるものかと気合いを入れて迎え入れたはずの両親は、ひとしきり娘の無事を確かめると、熱烈に薫に感謝を伝え始めたのだ。
薫の両手は先程からずっと直の父親の手の中だ。
直は、先に冷静さを取り戻した母親とそのやり取りを見守りながら、このまま同居には触れずにすむのだろうかと、考えていた。
「…で、彼は結局、あんたの彼氏なの?」
「はぁぁ?!」
気を抜きかけたところにきたボディーブローは、見事に直の動揺を誘った。
母親は、叫んだ直を不思議そうに見つめる。
「あら、だって最初の覗きの通報から一緒に来てくれたんでしょ?まさか、偶然ですなんて言わないわよね」
「あー、えっとぉ…」
ここは、しらを切ることはできないだろう。けれど、何をどこまで話すのが正解か、と直は考えた。不審に思われないうちになにか言わなければ、と焦りが募る。
そんなこんなですでに十分挙動不審になっていた直に気付いたのだろう、薫が振り返った。
「あの!」
突然声を張った彼に、さすがの父親の握手攻撃も止まった。
3人分の視線が集まったところで、薫が真面目な顔で頭を下げた。
「まず、謝らせてください。大変申し訳ありません」
「おい、何のことだ?頭を上げてくれ」
「お父さん。まず聞きましょう」
取りなされて父も黙ると、直角に腰を曲げたまま、薫は続けた。
「僕は、お二人に無断で、直さんと同棲していました」
「どっ」
「同棲?!」
「…どうしてあんたが驚くの」
直への突っ込みは母親からだけで、父はそんな余裕もなく動転してしまった。
「ど、同棲って君!いや、おま、お前?!」
「そうだよ、薫さんっ。同居でしょ?!」
「あんたたちは少し黙ってなさい」
母親は呆れた顔で家族を黙らせると、まだ頭を下げ続けている薫へと向き直った。
「矢野薫君でしたね」
「はい」
「顔を見せて」
「はい」
今度こそ頭を上げた彼は、自分に集まった三者三様の視線を受け止めた。
「貴方は、あの家に直と住んでいたの?」
「はい。申し訳ありません」
「まだ謝れとは言っていませんよ。それで、どういう経緯でそうなったの?親の目から見て、この子はそういう積極性のない子だけど」
母親の言葉は、薫が強引に押したのかともとれるものだったが、口調には本気で不思議がっているようなところがあった。
薫は、素直にこれまでのことを説明した。
途中、何度も父親が奇声をあげかけたが、その都度母親に制止された。
「なるほど、納得できました」
母親もさすがに複雑な顔になっており、そのことに直は緊張した。
ひとまず大人しく聞いていたものの、薫の説明は彼に厳しすぎて、直にはフォローしたいところがたくさんあったのだ。しかしそれを言おうと口を開いたところで、母親が言った。
「矢野君、貴方のこと、多分義母から聞いていたわ」
「え」
「うちの人は意地張ってたけど、やっぱりあの年で一人暮らしも大変でしょ?何度かせめて近くに来ないかってお義母さんに提案したのよ。そのたびに、近所の可愛い子と会えなくなるから、とか色々手伝ってくれる子がいるから、とかで断られたのよね。それ、貴方のことだったのねぇ」
薫が胸をつかれたような顔で何も言えないでいると、母親は続けた。
「去年は、大きくなりすぎた庭の松、切ってくれたわよね」
「…はい」
「毎年、大掃除のときは障子の張り替えを手伝ってくれてた?」
「はい」
「テレビを買い換えたときに配線をしてくれたのも、貴方よね」
「はい」
素直に頷いた薫に、彼女はふっと何かを思い出したように頬を緩めた。
「お義母さん、いつも嬉しそうに話してたわ。こっちも共働きでばたばたしてたし、それならって毎回話は流れてたんだけど、結果的に、貴方にお義母さんをお任せしていた訳よね。本当に、どうもありがとう」
「な、それはおかしいだろうっ。こいつは、うちの娘と母親を両方手玉にとって家にまで上がり込んで」
「馬鹿ね」
「お父さんうるさい」
妻子にばっさり切られて、父親の言葉は途切れた。
「あのねぇ、もとはと言えば、あなたがお義母さんとちゃんと向き合わないであの家のことも放置していたんでしょ?寄り付くどころか連絡すら私任せで。それを今ごろ何言ってるのよ」
「そうだよ、薫さん居なかったら、おばあちゃんも私も寂しく一人で死んでたかもしれないんだよ」
「そういう縁起でもないことを言うな、直っ」
「縁起でもないけど、ついさっきまで本当に、そうなるところだったよ」
娘の顔をよぎった恐怖の記憶に、父親は言葉を失う。
薫が、力の入った直の肩を撫でようとして、ためらって下ろした。けれど、気付いた直はそのことに嬉しそうに笑い、彼を見上げる。ふわりとそこだけ空気が和み、無言のうちにも二人の間の信頼や安心がのぞいた。
それを見せられた両親は、しばし黙りこんだ。
母親がぽんと夫の肩を叩く。
「お父さん、分かったでしょ」
「なんだ」
ぶすっと不機嫌な声だったが、妻が動じることはなかった。
「どんなにごねても、大事なときに守ってあげたのはあの矢野君の方で、私たちじゃない。娘がとられて悔しいのは分かるけど、今無理に引きはなそうとか追い払おうとかしたら、直の安定がとれなくなるだけよ」
それは、娘を見ていて感じずにいられないものだったのだろう、父親は不本意そうに押し黙った。
「娘が変な男を連れてくるより、大事なときに守ってくれるような男の子でよかったじゃない」
「まだ変な男じゃないと決まった訳じゃない」
「あら。お義母さんも小さい頃から太鼓判の、優しくて働き者で掃除も料理も洗濯も庭仕事も出来る男の子だけど。それを言うなら、貴方はどうなるの」
掃除も料理も洗濯も面倒がって人任せ家電任せの父親は、意地悪なこの問いに唸ると、ぼそりと最後に吐き捨てた。
「少なくとも、俺とは合わない」
その後、色々な手続きも済み、家にたどり着いた。
そこで今度はとにかく一度実家に帰ってこいと言われて糠床があるからと直が断って、とまた一悶着あったのだが、母親の一喝で収まった。
整頓された古い生家を見回して、父親は去り際にやはり一言、俺には合わない、と呟いた。
「行っちゃったねぇ」
「うん」
直の両親は、布団が足りないので一度帰っていった。娘を心配してまた週末にすぐ、防犯砂利やら警告ランプやらを買い込んで来るというが、ひとまず家にはいつもの空気が戻っていた。
玄関から茶の間に戻りつつ、やはりこの感じが一番落ち着く、と直は数日ぶりの二人きりの我が家の空気を吸い込んだ。夕方あれだけ怖がったのが嘘のように、安心していた。
「色々、うちの親がごめんね」
ため息混じりに伝えると、薫は余分な湯飲みを片付けながら驚いた声を出した。
「なんで。ていうか、むしろ、どうしようかと思ってるんだけど」
「なんで」
今度は直が尋ねた。
流しに湯飲みを置いて、薫が戻ってくる。
直は残っていた自分と薫のコップに麦茶を注いで、返事を待った。
「いや、だって。正式に同棲許可が出るとは、思ってなかったから」
直の両親は、お互いそう望むならと、最終的には今まで通りの生活を許容したのだ。彼らをしぶしぶ納得させたものは、ここに住み続けると主張した直の防犯の必要性が大きかったことだ。しかし、生活力のなかった彼女が薫のおかげでいかに文化的かつ健康的な生活を送るようになったかを、家の様子から見てとれたという要因もあったろう。男親から見ても、薫がきちんとした人間であることは否定できなかったのだ。
けれど、さすがに二人とも、『同棲』とは言わなかった。
「ど、同棲じゃあなくて同居っ」
向かい合って座った薫に恥ずかしさを感じて、直は軽く睨みながら訂正する。
けれど、薫は真面目な顔でじっと直を見返した。その目に、直はどきりとした。女の子だと思っていたときと同じ涼しげな切れ長の瞳だが、その奥で微かに熱が揺れている。それがなんなのか、全く分からないとはもう言えない。
「でも、俺、直さんのこと好きだよ」
「ふぁっ!?」
ある程度予感はあったはずなのに、言葉の威力は凄まじい。すっとんきょうな声が出た。
畳に手をつきのけ反った直に、薫は苦笑した。
「もちろん、すぐに手を出すなんて無いから、安心して」
「あ、うん…」
そろそろと体勢を立て直しながら、直は二重の意味で赤面した。薫の発言はもちろん、自分の反応が過剰すぎた気がしてきたのだ。
薫は、そんな彼女を少し無言で愛でた後、言った。
「でも、返事は聞きたい」
「あ、」
何の、と聞くほど鈍くはない。けれど、真っ赤な顔の内側もやっぱりしっかり湯だっていて、すぐには言葉が出なかった。
そんな直に、薫は少しだけ身を乗り出して、畳み掛けた。
「俺のこと、好き?まだ出さないけど、直さんが怖くなくなったら、いつか手を出していい相手として、見てくれる?」
この質問は酷いと、直は思った。
もう少しソフトに、ただの好き嫌いの好きとれるものからスタートしてくれれば、なんのためらいもなくうなずける。それを、将来的には性的なことも含めた間柄になり得るかなど、うら若き乙女に答えさせないでほしいと。
けれど、そうして退路のない形で聞いてくるのは、薫が直に対して本気で向かい合っていることの証明である気もした。その同意も確認なしに、なし崩しに関係を持つなど、あり得ないという。
それで、極度に緊張して机の木目を見つめながらも、直はなんとか声を出して言った。
「…好き」
反応は、返ってこなかった。夜中の静かすぎる家のなか、いつも聞こえる風鈴の音すらしないのは、自分が家中の戸を締め切ったからだとそんなことを思い出す。
聞こえたのか、どう思われたのか、不安になって、直は静寂を埋めるように早口に言いつのった。
「あの、えっとね、薫さんのこと、好きだよ。その、ああいうことがあったけど、薫さんのことは怖くないし。薫さんならいいっていうか、むしろ近くにいないと不安だし、触ると安心するし、その、」
あ、と思ったときには言わなくていいことまで口走っていた。
直が恐々視線だけ上げて伺うと、薫は、とろけそうな笑顔で直を見つめていた。
「あ…」
「かわいいなあ」
絶句して口をぱくぱくと金魚のように開け閉めした直の方に、そっと薫は手を伸ばした。
「ばあちゃんには悪いけど、こういうときだけは、ちゃぶ台と座布団じゃなくてソファがいいかもって思っちゃうよ」
机越しに指先だけで直の額の髪を撫でながら、薫が言う。
その顔に浮かんだ後ろめたさのようなものに、直は緊張も忘れて噴き出してしまった。
数日後、予告通りやって来た直の父親が、薫と一緒に防犯砂利を家の回りに敷いた。そのときに薫の働きぶりと熱心さに感心した父親が、彼を気に入って、それからしばしばこの家の客となるのだが…それはまた別の話である。
これにて後日談完結です。できるだけ夏じゅうに仕上げたかったのですが、もう秋雨の季節ですね…
お付き合いいただき、ありがとうございました。




