第九十八話 ティータイム・トライアングラー 後編
自分から頭を上げる気配のない少年。リールは何も言わない。男も何も言わない。当然、少年も。静寂だけがただ続いた。
ガタンッ!
ゴンッ。
ピキィ……。
「ねえ、もう、許して……。ねえ……。貴方の言う通り、ただただ見ていたけど、もう限界! 大人げないわよ、シュトーレン・マークス・モラー。もう、いいでしょう。彼はもう十分に自身の行動が傷つけた物が何か理解したわよ。」
とうとう、耐えきれなくなったリールが椅子から乱暴に立ち上がり、自身の両手で机を思いっきり叩いたのだ。
テーブルはガラスでできていたため、その一撃で罅が入った。まるで今の三人の関係性を象徴するように、正三角形のテーブルを縦断するように大きな一本の線が迸った。
ドンドンドンドン、
ドンドン、ドン。
リールは乱暴に音を立てながら進み――止まった。男の正面、わずか数センチの距離に。向かい合う二人。
だが、男は一切道化染みた行動は起こさない。その目は冷え切って、まるで死人のようだったのだから。
(なんであんたは……)
(どうして君は……)
そして、拳を大きく振りかざして、腰を落とし、二人は顔面に向かって互いの拳を振りかざした。リールは十数センチ後ろへのけぞる。
だが、膝をつくことなく耐えた。口の中を切ってしまったらしく、口の端の方から紅い血が一筋零れる。
女性らしからぬ耐久を見せたリール。普通ならこの一発で卒倒していてもおかしくないのだ。それどころか、大柄な男の拳をまともに食らって、激しく吹き飛ぶこともなく、こらえてしまっているのだ。
たとえリールが女傑とはいえ、普段ならそうはいかない。でも、今回は倒れるわけにはいなかなった。とはいえ、避けるわけにもいかなかった。だから、耐える、しかなかったのだ。
そして、それをやり遂げなければ……。
リールには分かっていた。
今回、悪いのは自分。少年でも、男でもない。男を傷つけた。少年を巻き込んだ。自分の気持ちがしっかりと定まっていなかったから。それについ先ほどまで気付かなかったのだから。
その結果が、今自分の目の前のこれ。
それを手でさっと拭い、ぎっとした目つきで男を睨み付けた。……涙を流しながら。痛いのだから。体ではなく、心が。悲鳴を上げているのだ。その根源は、罪悪感。
男は、膝をついていた。まともに顎に入ったらしい。だが、ふらつきつつもそのまま気を失って倒れる気はないらしい。苦しそうに大粒の脂汗をまき散らしながらも、おぼつかない足取りで立った状態を保っている。
視界が歪んでいるのだ。歪むはずのない、ガラスの箱。それがまるで意思を持つかのように蠢いている。リールが複数人見えるような、気がしていたのだ。
倒れて楽になりたい。目の前の現実から逃避したい。見せつけられたのだから。自分が掴むべきだったものを、簒奪者が掴んでいるのを。自分が捨てられたことを、再認識させられたのだから。
男は、頭では、理屈では、納得したつもりだったのだ。だが、男の感情は、それを許していなかった。機を伺うように男の本心、感情は、なりをひそめていたのだ、今まで。
男は本当はこんなことするつもりはなかったのだ。少年をこのような大人げない目に遭わせたことで、もう終わり、にしたつもりだった。
だが、実際は、こうなってしまっている。男の怒りは収まらず、剥奪者たる少年に対して、ねちっこく嫉妬心を向ける。
少年の行為事態は許したが、その際の態度一切を赦してはいないのだから。そのことに男はまだ気づいていない。
だから、これは、男にとってはよくわからない、靄のような怒り。理由なんて、ある意味ない。ただ、気に入らない。そんな、どうしようもない怒り。
そして、それを庇ったリールが今度は物凄くいけすかない輩に見えたのだ。怒りは膨張し、暴力へと変わったのだ。
無言の二人。最初の一発以外は、交代交代のテレフォンパンチで、お互いの顔面に一撃ずつ入れていく。少年はその衝撃音を聞いて焦って立ち上がり、二人を止めようとしたが、足が――動かなかった。二人の間にある空気。それが、少年が割って入る間なんてなく、どうあがいても止めることなんてできないと、疑いようもなく、心に抱いてしまった。
(俺は、ここに、居ないんや……)
これは、二人の問題なんだ、と。
無言の、拳の会話なんだ、と。
だから、少年はその場から離れた。二人が本当にお互いを憎みあって対峙しているわけではないと分かったからだ。
少年は、椅子に腰かけた。そして、三角のテーブルの上に用意されていた透明で中身が外から見えないようになっているティーカップに、同じようになっているティーポットからその中身を注いだ。
ポトトトトト――
ポットの立ち上る、林檎の香り。フレーバーティーの一種、アップルティー。このセレクトには何か意味はあるのだろうかと、少年は考える。
二人の方を眺めるつもりは少年にはなかったのだ。それはあまりに無粋だから。だから、今は、おそらく男が用意したであろうメッセージを、このセレクトから読み取ることを試みることにしたのだ。
あの男は、意味のない行動は基本しない男だ。つまり、普段の所作全てに何か意図がある。少年は、男と知り合って僅かであるが、そういう気が男にあることを気付いていた。
コッ。
カコン、スッ――
少年はその紅茶を一口分啜った。鼻孔を通って吹き抜ける、芳醇な香り。そして、頭に浮かぶイメージ。それは楽園。かつてあったといわれていた、エデンの園。
少年はそれを知っていた。阿蘇山島で見たある本に乗っていた古びた本に載っていた挿絵。今はなき、宗教というもの、そのうちの一つを今に伝える資料の一種であるらしい、と司書から説明を受けた。
だが、浮かぶイメージはその挿絵とは幾分か違う。誰もいない、静寂漂う場所となっていること。林檎の生る木が数多くそびえていたこと。
そして、その実から、如何なる悪意も魅力も感じないこと。
(なんなんやろうか……俺にはこれ以上何も分からん……)
少年はただ、黙ってさらに一口、一口と、それを啜った。




