第八十七話 道化師の乱舞 前編
島野家の屋敷2F、庭に面するテラス。そこはかつて男が彼女とよく並んで庭を眺めながら佇んだ場所。
取り残された男、シュトーレン・マークス・モラー。
(悔やましい。だが、それは放すことを選んだからではない。過去を後悔したからだ。彼女があの少年と会う前に彼女の心の奥に手を伸ばせていれば……。私は彼女の心に触れられていると思っていた。だが、違ったのだ。あの少年が私のところに来て、覚悟を示して、そこで私は一歩、……違う)
男は空を見上げた。眩しい。強い光に、目が防衛のための液を放出する。男は空を向くのをやめ、ハンカチーフをさっと出した。そして、もはや必要ないその液を跡形なく拭き取った。
(過去は変わらない。遭遇した事象への決断は一度限り。だから、悔やんではならない。それは忌むべき決断か? それだけは断じてない。答えは変わらない、揺らがない。それは私の真意に準じた決断)
男はその体型からは予想できないような身軽な動きで、軽やかにテラスの柵を飛び越えて庭へ優雅に着地した。
男は人垣の最後尾に自然に紛れ込んだ。そして、真近で少年とリールを眺めた。その距離は数十メートルだが、男にはそれがどこまでも遠かった。
男と少年と比較した際、男の今の立ち位置は先ほどまでとは対照的だ。遠くからただ眺める番になった。ただそれだけ……。
普通このような状況では、恥を感じて怒り狂うか、完全なる無関心を装うか、そっと去るか、遠くから手を下して乱入者である少年を排斥するか、花嫁の実家に賠償を求めるか。
これらに類する行動を普通の人間なら取ってしまうに違いないだろう。彼は、拘り、しがらみ、名誉に縛られて生きる貴族という種の人間なのだから。
だか、彼はそれと同時に道化であった。彼は上記の縛りから外れても平気でいられる稀有な人間なのだ。それどころか、そういった状況を俯瞰し、愉しむことができる。たとえ自分が傷つこうとも。彼にとっては、自身が傷つくことより、周りが傷つくことの方がきつい。
それは彼の少年期にリールととある幼子から受けた影響によるものだが、それはここではまだ語られない。
男は周囲を見渡す。今の状況、傷ついているのは自分ではない。そして、自分の身内はあの通り、愉悦に浸っている。相変わらず下衆い。だがそれが今はいい。視点を花嫁の関係者側に合わせる。
(ここだ。彼ら。リールの父親、その周辺の数人。島野家の重役たち。事情を知っており、決定を下したのは事実上この道化だ。一見リールが判断を下したように見えるが、そうではない。少年を排除せずここに居らせたのは私なのだから。)
自身のことを道化と言い切り、まるで他人事のように事態を俯瞰する。そうすることで、男は自分中心の視点を思考から取り除いていた。そうしながらも自身の意思で次の行動を起こそうと自身を鼓舞した。
(彼らの不安さえ除けばきっとこの問題は解決する。丸く収まる。数日後にはこれはきっとただの笑い話に成り下がらせることができるだろう。彼に話を聞いたとき、こうするとこの道化は決めたのだ。)
動き出した花婿、シュトーレン・マックス・モラー。
「どうして貴方方は素直に二人を祝福してあげられないのか! 私には理解できないですねぇ!」
人垣の視線が一斉に、男の方を向く。冷めた、蔑んだ、刺すような視線がわざとらしく大きく演技懸かった声でやんごとなき人垣を煽った男に対して降り注ぐ。だが男はそれでも動じることなく道化として踊り続ける。
やめることなく狂ったように。
「あ、なるほどなるほど。」
パシン!
わざとらしく大きな音を立てて男が手を叩く。人々は呆れつつも男から視線を外すことはない。それどころか、その手の音によって、男から目線を移そうとした一部の人々まで、視線を逸らすことを阻止されたのだ。
そして、続きを紡いだ。
「では、皆様。どうぞご覧ください」
すると、仮面を殴り捨て、その巨体のボディープレスでド派手に粉々にしてみせた後、次々押し寄せる儀礼の蹂躙によって風情を失ったやんごとなき人々に対して、彼は優美に言い放った。
「この振る舞いこそが私の真の答えです」




