第八十六話 交差して、並んで、岐れて
男は彼女と逆の方向を向き、彼女からゆっくりと離れて背筋を伸ばして胸を張り、歩みを一歩、二歩。そして、彼女の肩をポンと優しく押した。
ピエロに徹し、リールを後押ししたのだ。男には分かるのだから。目の前の、花嫁になるはずだった女の気持ちが。手に取るように。なぜなら、男は彼女のことを幼いころから度々見てきたから。
そして、ある意味自身と似た境遇だった彼女、籠の中の鳥である彼女に、家の重みに押しつぶされて飛ぶことすら諦めていた自身を、過去、重ねていた。
そして彼女と接し、男は彼女に惹かれていく。かつて抱いていた、叶うはずのないある夢。それは男自身から見てもただの絵空事だった。
そんな妄言を彼女に語った。誰にも語ったことのなかった自身の胸中を。それは自身の勝手極まりない戯言。だがそれを彼女は優しく受け止めてくれ、本心から自身を応援してくれていることを感じた。
(放したくはない。だが、それ以上に、彼女の思いを曲げたくはない。私はありのままの彼女に惹かれたのだから。)
通り過ぎていった、離れていった男の方を彼女は向き、手を伸ばそうとする。しかし、実際は、踵を翻したところで彼女は立ち止まった。
それは数秒の、選択のための空白。
そして、再び元の方向へと彼女は踵を翻す。かつての自身の最大の理解者である男に心の中で感謝する。言葉には出さない。
少年へ向かって歩き出した。
こういうとき素直に心を曝け出せない、かつて慕っていた男に対し、男の心情が分かってしまう彼女は、言葉を発することはしない。
(ありがとう、私を最も理解してくれる人。私の身勝手を尊重してくれて、後押ししてくれて、見届けてくれて。ああ、泣きそう。でも私がそうしてはいけない。それだけはいけない。何があっても)
リールは揺るぎ無き一歩をそこから踏み出していくのだった。
リールが近づいていき、距離を詰めていく。おおよそ最初は20メートル程度の距離。そこから、残り、19メートル、18メートル、17メートル――――、そして、残り10メートルを切ったかというところで、突然少年が従僕の横を前を抜けてジグザグにリールに向かって走り出し、仮面を投げ捨て、飛びついてくる。
(ポンちゃん、今までこらえててそれは駄目よ!)
身を退いた男は、その足跡を聞いて、涼しげに笑い、二人から離れていった。そして人垣の花道から人知れず姿を消した。やんごとなき人々は目の前の光景に釘付けなのだから。
そして、今この場で主役の一人となった少年は、そのままリールの胸に埋もれて――
「リールお姉ちゃん、ぅあああああああああああああんんんん~~~~っ!」
グスグス、
しくしく、グスグス、
しくしく――
そう。周囲のことなんて一切気にせずに泣き始めたのだ。これにはさしものリールも拍子に取られた。だが、少年をすぐさま受け入れて、優しく抱擁し、自身の胸に埋もれる少年をただ撫でた。
今少年にとってアウェーなこの場から、少年を守るために。
少年はまだ子供なのだ。どれだけ果敢に行動できたとしても、儀礼をぶち壊したとしても、感情を抑え切れず泣き出しても。リールはそう考えた。
あまりに色々あったため、周囲の人垣はもう、ただ見ているだけしかできないようだった。ただその中の僅かな数人だけがその様子を何故か暖かく見ていたが、中心の二人に、それに気づく余力は残っていなかったのだ。




