第八十五話 やんごとなき
場は大きく騒めく。その事態に優雅で風流なやんごとなき人々も平静ではいられなかった。なぜなら、リールが正しい行動をした侍従たちを制しただけには留まなかったからだ。
礼を失する、場合によっては侮辱ともとられる、ある行為を彼女が行ったからだ。
カランカラン、
バリンっ!
静寂の会場に響き渡る落下音、そしてその後の破砕音。その発生源は、リールの足元で粉々になっている、彼女が先ほどまでつけていた仮面だったものである。
リールが、つけていた仮面を右手で鷲掴みにし、空に解き放ち、やがて地面に音を立てて落ちたそれを踏み砕いたのだから。
決意を決めたリールは、その力強い決意の眼差しを周囲に晒しつつ、周囲の反応なぞ一瞥もせずに自身の隣に立つ男にこう話しかけた。
「ごめんなさい、やっぱり駄目だわ。私にはできない。自分に嘘をついて、このまま流れに身を任せる、あきらめるなんて、到底無理だったのよ……」
一見弱弱しそうなその口調とは裏腹に、彼女の目には先ほどまでとは違う力強い決意の炎が灯っていた。周囲のどよめきが大きくなる。だが、リールが話しかけた花婿はリールと同様に、一切どうじていない。
「ふふ、君ならそう言うと思ってたよ。ははははは、いいじゃないか。そんな君だから、私は君と一緒になってもいいと思えたんだ」
周囲のざわめきは最高潮に達する。両家の関係者たちの一部、おそらく縁の深い者たちの一部数名が気を失って倒れこんでいる。
新郎の父親らしき、最も上等な恰好と威厳を持った恰幅の良さすぎる大玉転がしの玉のような体躯の男が豪快に笑っている。
それとは対照的に、新婦の父親らしき、線が細いながらもしゅっとして適度な筋肉の存在が服の上から微かに感じ取れる男は、顔を真っ青にして、地面に突っ伏して、弱弱しく口を動かして何か言おうとしていた。
騒めきはどよめきがへと変わった。花嫁と花婿のありえない遣り取り、もはや、花嫁はこの場で花嫁であることを拒絶してしまったのだが。
ともかく、二人の遣り取りに対して大きな反応が沸き起こった。中には強く反応し過ぎて倒れる者もいたほどである。倒れた数人のやんごとなき人々の出現により、すっかり崩れてしまった、元・人垣の花道。それは元という言葉が示すように、もはや体を成してはいない。
無論倒れたのは、花嫁と花婿の家の者の中でも特に力を持つ、しかし少々波乱に弱かった数人である。
花嫁と花婿は最初で最後の共同作業、婚約破棄、いや、結婚破棄を始めることとなる。その様子を、少年は従僕たちに隔たれて、その間から伺うことになる。
少年はこの式の花嫁、リールの決断とその結末を見届けるために二人に視点を合わせ、耳を傾け、意識を集中させていた。
すっかり普段の調子を取り戻していたリールは周囲の空気を一切汲むことなく、着々と話を進めていく。
「さすがね。あ、一応言っておくけど、私あなたのこと嫌いじゃないわよ。目の前のこの子と出会わなかったら、これでもよかったと、あなたと一緒になってもよかったと、そう思えるくらいには。」
花嫁は恐ろしく軽く、そう言い放つ。その衣装を着て、自身の相手に向かってそんな言葉を投げかけるのだから、誰の目から見ても、恐ろしい光景である。色んな意味で。
彼女がそんな行動を取る人間であると分かっている中心人物が、少年と新郎しかいないのだから、もう会場は阿鼻叫喚である。とてもやんごとなき家同士の結婚式の会場とは思えない混沌とした空気が、花道を形作っていた元・人垣たちの間には漂っていた。
「はははは、言うじゃないか。君はとうとう自分というやつを見つけたわけだね。」
新婦はそれに対して、ものすごく軽く、自然に答えた。それもけなすことなく、褒めている。心の底から。ほぼ唯一といっていい傍観者である少年にはそう見え、そう聞こえた。
少年には男のその顔に見覚えがあった。自分と男の取引が成立したときに見たあの顔だ。愉悦の発露。男の本性である。
刺激主義者。その言葉が最も当てはまるといえるだろう。
そして、流れるように二人の遣り取りは進んでいく。
「最後までキザね、あなた。」
「はは、僕はこうやって、生きる、有る、ともうずいぶん前から決めていたからね。君の弟くんのおかげでさ。」
「あの子……、――、ありがとう。あんたも、そして、もうこの世にいないあの子も。私、もう思う通りにするわ。私は私。リール家の私ではなくて、唯の私。」
「さすが僕の初恋の人だ。え、そんな顔しないでくれよ。困ってしまうじゃないか。別に問題ないじゃないか。僕はもう君に恋してないし、君は今、僕のことなんか眼中に無いんだろ。行きなよ。彼が待ってるから。」
リールの弟の存在。少年はその名を聞き逃した。そこだけ小声だったからだ。だが、そのことを心に留めておく余裕は少年には幸か不幸かなかった。展開についていくのに必死なのだ。
なぜなら、少年は男から事前に今日どのような手順で事が行われるか一切説明されていなかったからだ。交渉成立時、男はただ一つだけ保障した。
『結果だけは保障してあげよう。まあ、君が想定する着地点とはずれるかもしれないけど、君が納得できない結果は出さない。それだけは保障してあげよう。だけど、その過程は見てのお楽しみだ。ふははははははははあはっ!!!』
そして、少年は男との交渉を終えるとき、男からふと一言、こう言われたのだ。
『私は彼女に無理強いはしないから、そのつもりで』
そのときの男の目からは、茶目っ気や道化っぽさは一切なかった。雰囲気も柔らかで快適なものだった。しかし、少年はそれに浸ることができなかった。その下に隠されたものが一瞬漏れ出た、気のようなものにあてられてしまったのだから。
一人の力強い意志の塊。その大きさ。その歪さ。その恐ろしさ。
一見柔らかな口調であり、さっと流すように放たれた一言だった。だがそのときに感じた言葉にできない、でも感覚を、嫌な汗が体の内からにじみ出てくるのだった。
(あのときは分からんかったけど、分かってもうた……。シュトーレンさんの最後のあれ、あれが本心やったんや。俺はそういうことをしたんや……)
少年が今できることは見ることだけ。もはや自分にできる手立てはないのだから。
少年はひっそりと、靴の中の自身の足の指をまるで拳でも握るように強く丸めるのだった。




