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モンスターフィッシュ  作者: 鯣 肴
第一部 最終章 東京フロート
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第七十六話 予想を裏切る女 後編

 少年は口を開いた。そして、その口から言葉が出ると女性は思ったが、違った。少年は女性を一切視野に捕らえず、死んだ目をして、左へ向かって歩いていく。そこには竹の壁と、黒い石の椅子があるばかり。


「君? ちょっと! 私はこっちだ。」


 女性もさすがにこれには戸惑う。冷静に答えを返すか、怒りに任せて飛び掛ってくるか。もしくは、泣き出してここから出て行くか、何も言わず、ただ睨む。これまでの反応から、そのどれかが返ってくると思っていた女性は、予想外の事態に少し戸惑う。


 少年は黒い石の前でピタリと止まった。


「おいっ、君っ!」


 少年は一切返事を返さない。そして、その場にひざまずく。彼女に完全に背を向けて。そして、両手を石の縁に沿えた。


 ゴォツゥウンン!


 大きく鈍い音が響く。一度頭をぶつけったっきり、少年は固まっている。呆然とさせられて彼女も固まる。そして、そのまま。数分の時間が流れた。


 冷たい汗が頬を伝うのを感じた彼女は、動き出す。少年の方へ向かっていき、その背に手を伸ばそうとした。だが、その手は少年に触れることはなかった。


 少年は立ち上がり、彼女の方を向く。額から血を流しつつ。少年が頭をぶつけた石にはべっとりと血が付着していた。


 彼女は数歩引く。どうやらこの少年は狂人の類であると。






「先ほどはすみません。つい感情的になってしまいまして。」


 少年から沸き立っていた怒りと狂気は一切感じられない。額から血がまだ流れていて、先ほどあんな突拍子のないことをしたのは気のせいではないのは間違いない。

 今度は先ほどとは異なり、彼女が少年にあっけに取られていた。


「どうかしました? そんな、狂人でも見るような目つきをして。」


 彼女には判断がつかなかった。少年が本当に狂人であるかどうかが。少年は突如変貌した。だが、それが意図的なものとは到底思えない。狂って冷静になった。そう判断するのが妥当だろう。だが、どう狂った? 自ら意図的に狂ったのか? 演技ではないのは間違いないと彼女は信じていた。


「いやあ、ね。突然あんなことするものだからねぇ、ははは……。」


 目の前の少年が先ほどまでとはすっかり違い、大きく見える。圧倒されているのだ。彼女は反省した。どうやらこの少年は遊び相手にするには危険なようだ、と。彼女の顔には、狂気に対する恐れと、何事もないと思い込みたい逃げの気持ちが顕著に現れていた。


 少年がその澄ました顔のまま、彼女との距離を詰めようとしてくる。一歩一歩。だが、その距離は埋まらない。彼女は、少年が一歩進むごとに一歩、後ろへ下がっていたのだ。


「どうして逃げるんですか?」


 すっと、息を吐くように自然な口調で少年はそう言葉を投げる。彼女の顔からは、汗が止まらなくなっていた。完全に立場が逆転したのだ。彼女の口から答えは返されない。






「演技ですよ。」


 少年はそう一言言い放つ。その顔には先ほどとは違って表情が浮かんでいた。見下すような表情。


 彼女は確信した。この少年を試していた自分は、知らないうちに、この少年から試されていたのだ、と。何事に対しても大げさなあいつがこの少年を、化け物と称していたのは誇張でも何でもなかったのだと、目の前の少年から逸らしていた目をしっかりと合わせた。一切の油断、遊び心なしに。一人の曲者が目の前にいると彼女はしっかりと認識した。


 少年はその様を見て、にやりと笑った。無邪気に。先ほどまでの凄みのようなものはすっかり消えていた。


「はぁ。心臓に悪いよぉ、ったく。」


 彼女は全身から力が抜けていくのを感じたが、膝はつかなかった。少年から見れば、ただ顔の力が抜け、肩の力が抜けたようにしか見えていない。少年に完全に安心しきった様子を見せなかったのは彼女の意地である。自身が測ろうとした少年に、逆に計られ、そして呑まれたのだから。せめてもの意地だった。


「そう言ってもらえるなら光栄です。」


 少年は悪びれもせずそう答える。


「悪かったよ。先ほどの言葉、謝罪するよ。君は本物だ、間違いなく。あの証を与えることにしたのは間違じゃあなかった。さてと、じゃあ話そう。用件を一方的に聞くなんて野暮なことは辞めだ。君とはじっくり話してみたい。間違いなくそうする価値が君にはある。」


 少年は満足げに笑顔を返すだけで、何も発しない。


「さて。じゃあ、そこの黒い椅子に座ってくれないか。私はこの白い椅子に座る。」


 部屋の入り口から最も遠い壁。そこには、石灰岩の椅子と、黒曜石の椅子があった。石灰岩の椅子が壁側に。手前に黒曜石の椅子がある。どちらも、椅子とはいっても、ただの座りやすい高さの石なのだが。

 だが、少年は彼女の言に従ってそれを椅子と考えることにした。少年がゆっくりとそこに腰を下ろした後で、彼女も白い椅子に腰を下ろした。


「いっつもここに座ってるもんだから、ここに座らないと落ち着かないんだよぉ。普段は客は座らせないんだけどね。私もちゃんと座らず、偉そうに胡坐をかいてるしさぁ。」


「そうなんですか。」


 少年はそっけなく答える。


「あ、敬語とかいいよ、もう。君って素だったらもっと砕けた喋り方するんじゃなかったけぇ。そう聞いているよ。」


「あ、じゃあそうするわ。あんたに敬語ってのはちょっと気乗らないから。」


(こいつ、船長よりも小物やな。それに、自身を大きく見せたがっている。変な口調に、声。服装。この場所。全部そのためのもんやろう。しっかし、思ってたよりも効いたな、頭ぶつけるの。俺自身にもこいつにも。)


 足を多少開いて座っていた少年は、偉そうに足を組んだ。彼女がこのような対応を、自然な対応を望んでいると感じたからである。


(あそこの偏屈な研究者たちにも効いたんだから、こいつにも効くんじゃないかって試してみたけど、いけるもんやなあ。もっとも、前は、意図的にではなくて、自然にそうなってしまっただけやけど。それに、こいつ。一見奇人やけども、中身はまとも。だから、すごい読みやすい。)


 これまでの苦悩に、度重なる危機の経験から少年は成長していた。純粋すぎる心という彼の弱点はすっかり消え去っていた。賢く、図太く、相手を読み、自身を演出し、演じ切る。少年はすっかり腹芸が身についていたのだ。


 無論、粗もかなりある。だがそれを補ってなお余りあるほど、その演技は人を呑むのである。

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