第五十七話 思考の迷宮堂々巡り
朝。本拠地の、リールがいた部屋。今は少年だけがいる部屋。そこで少年は自身の荷物の撤収準備をしていた。前日に、船長からここから出るように言われたからである。元から少年の荷物はほとんどなかった。それに加えて、リールが選択した少年の衣服などの身の回りの品数点が少年の荷物の全てだった。荷造りをしながら少年は自身の心の内を声にする。誰も聞いていないからこそ、声に出せる。自身の本心を。遮るものはないのだから。
「俺は冷静じゃないんや。いや、でもさっきよりはましか。ちょっと整理してみなあかんかもしれん。」
少年は自身の心を声にすることで現状を再認識し、これからどう動くべきか考えることにしたのだ。自身の声を、心の中と、体の内側からと、体の外側から、三度にわたって聞く。それによって、考えをより鮮明なものへ変えるのだ。
「俺がまず決めなあかんのはリールお姉ちゃんに会いに行くか行かないかや。今のまま、流されるまま、船長の意志にただ押されただけの形で行くのは絶対にあかん。俺は自分で決めんとあかんのや。さもないと、会わせる顔があらへん……、そもそも会えるかもわからへんねんけど、くっ、なあ。」
少年は自分で言っていて悲しくなっていた。しかし、そのことを悔しく思えるということは、やはり、会いに行くべきなのだろうと確信した。
「想像したけど、俺はもうリールお姉ちゃんに会えなくなるのは絶対に嫌なんやな。……それが理由やな。」
何としてでもリールに会いたいと紛れもない自身の心が叫んでいると少年は悟った。誰に言われるでもなく、そのうち動き出しただろうし、それがただ前後しただけのことだとして、変な思い込みは捨てたのだ。まるで船長に誘導されているようであるという思い込みは。船長の介入がなくとも答えは変わらなかっただろうから。
少年は現状を認識できたようである。では次は取るべき手段を考える必要があるのだ。自身の頭の中でそのための経路を辿っていく少年。理論を素早く組み立てていく。
「じゃあ、どうやって会いに行くかやな。一番簡単な手段は交易船や。東京行きやったら頻繁に入港してるから何とかなるはずや。でも、それだとどれ位の期間が掛かるかわからへん。」
いきなり行き詰る。少年がこれまで乗っていた瑠璃色夢想者号は、この時代の船舶の枠を超えた速度で移動することができる船である。その速度であっても東京に到着するのは二週間は掛かるのだ。寄り道せずに真っ直ぐ進んだとしてもである。
昨日、船長はそのことを船長にしっかりと言い聞かせていた。放心しながらも、少年の頭には船長から示された情報はきっちりと記録されていたのだ。
船長が言うには、この船に乗って予定通りに二ヵ月後に東京に着いたとしても、その頃にはリールがまた別の場所へ移動している可能性があるとのことだった。リールの実家は資産家であり、特に、前時代の技術についての高い技術を持っているかららしい。
高速艇という、現在の認識では有り得ない速度で動く船の技術がその一例だそうである。だからリールが既に東京に着いている可能性もあり、島野家の屋敷から移動されてしまえばもう居場所は掴めないということは船長に言われなくとも少年には分かった。
「俺はどうしたらいいんや。リールお姉ちゃんはなんで黙って行ってしまったんか。俺には分からへん。そもそも会いに行っていいのかも。」
一度思考を中断し、少年はベットに身を投げる。そして暫しの間、煮詰まった頭を休めることにした。
「……、んん、暑い。」
少年はまだ重い瞼を少しだけ開き、洗面所へ移動し、顔を洗う。鏡に映る自身の顔を見ると、その両目は赤く充血していて、涙がひどく滲んでいた。自身がこれまでになく弱っていることに少年は気づいた。しかし、だからと言って思考を辞めることはできないのである。
その先に待つのは後悔だろうと確信できるのだから。後悔は、自身が踏み出せば何とかできたかも知れないことに後悔するのはもう耐えられなかったのだから。何もできなかったという事実をこれ以上積み重ねたくなかった少年は、隣に支える者がいない自身の心を辛そうに、必死に、抱えている。
「あかん、どんどん悪い方へ考えが寄っていってるで。こういうときは切り口を変えるんや。……でも、大きく関わってるの、俺とリールお姉ちゃんとおっさんだけやんか……。はぁ。」
堂々巡りである。悪い考えの輪から抜け出せなくなっていた。少年は再び、その体をベットに放り出す。仰向けになって額を手で押さえ、目を瞑る。
「船長、俺に自分独りでなんとかしろって、初めて言ったよなあ。悪ふざけではなくて、本気で……。」
島での船長の悪戯を思い出す少年。その口元は悲しそうに微笑む。そして、遡って、船長からこの船に誘われたときのことを思い出す。いろいろあったがまだ一ヶ月しか経っていないのである。そんな濃厚な一ヶ月をじっくりと少年は回想していた。
そして、ふと思う。
「だけど、これまでの船長なら、そんな俺をリールお姉ちゃんの下へ連れていってくれたはずや。」
船長がこれまでに取った少年への対応の姿勢。それは、どうしようもなさそうなときは必ず助けるというものである。今回もそのどうしようもない状況に当てはまるはずである。しかし、船長は自分を一見突き放したように少年には思えてならない。
「……ちゃうんや、なんで甘えようとしてるんや、俺は。人に頼ってどうする。人は困っている人を助けない。困っているから助けるのではなくて、気まぐれで助けるのだ。だから、俺は、リールお姉ちゃんにもう一度会うんやったら、自分でなんとかせなあかん。自分で。独りで。」
少年は数日前のことを思い出す、墓の前で言われたこと。覚悟。それが自身にまだないであろうということを。その覚悟を求められているのではないかと少年は思うが、その示し方、目に見える形にする方法が検討もつかないのだ。どんな苦難にぶち当たっても諦めずに進んでいくこと。それが答えであることは漠然と掴めてきているのだ。だから、今回、少年はリールに会いに行くという無茶を成し遂げることができれば自身の覚悟が決まると思っている。ただそれが余りに無茶なことのように思えるから難儀しているのだ。
「俺はこれまで旅したことなかった。釣人旅団に入って旅した気になってたけど、それはただ、連れてってもらっただけ。遠足や。」
自身がぬるま湯に漬かっていたことを自覚したのだ。もうその湯はないのだから、都合よく物事は進まないのである。
「こっからは違うんや。まだ考えなあかんことは山ほどある。どうしたらええんやろうな、俺は。……考える時間も本当はないんや。とにかく、とにかく動かんと。でも、俺だけではどうにもできない。目的地は分かってるんやから、こことそこを繋ぐだけや。そう考えたらええ。俺がやらなあかんのは情報を集めることや。旅には何が必要なんか知ること。目的地まで行くために必要なものを集めること。もう、やるしかないんや。だって俺に帰る場所はないんやから。」
「誰がが俺が思いも寄らん凄い方法で俺を助けてくれたりせんもんかなあ……。」
再び少年は浅い眠りに就いた。堂々巡りは続くばかり。




