第五十六話 行けよ!
船長室で提督椅子に掛けている船長。机越しに向かい合っている相手は少年だった。暗い顔をした少年は船長に迫る。机に両手をついて。
「おっさん、リールお姉ちゃんおらんやんけ……。」
気づいてしまった事実が本当なのか、少年は船長に確認を取る。答えは分かっているが、もしかしたらその悲しい答えが間違いなのかもしれないのだから。
「ああ。」
真剣に少年を見据えて、船長はそう短く答えた。
「リールお姉ちゃん船降りてんなあ……。」
「……、ああ。」
崩れ落ちる少年。リールが目の前から消えた。何も言わずに。それが現実だったのだから。哀れむように船長は地面に崩れ落ちた少年を見下ろす。
「なあ、ボウズ。お前も降りるか、この船を。」
それは冷たい目線からのとても弱弱しい声だった。しかし、その言葉は少年の心を深く抉った。平時であればそれが船長の言いたい言葉ではないことは少年の目には明らかだっただろうが、少年の心に今は平静はないのだ。
船長の言葉が終わるとともに、少年は急に立ち上がり、思わず、
「ふざけんな、俺に帰る場所なんてないんや。ここから降りてしまったらな!」
机越しに船長の首元を両手で吊り上げ、怒りを露わにした。
少年は目で訴える。どうしてそのようなことを言うのだと。自分を誘ったのはお前で、お前の言葉を信じて乗った自分はこれでは唯の愚か者でしかないだろうと。少年と船長はそのまま睨み合っていた。それは長い間続いた。少年が手を離すまでひたすら。
「で、お前はどうしたい?」
長い間続いた沈黙を打ち破る一言。船長は最初のような、真剣な目つきで震えのないしっかりとした声で少年に問う。先ほどまでの発言は意図的なものだったのだろうかと、少年は疑った。そして、どう答えるか、少年は迷った。本心を包み隠さず言えば、先ほどのような対応をされる気がした。だからと言って、本心を隠すとこのまま、どちらもが不満を溜め込んだまま話が終わってしまうような気がした。少年は悩む。
「本当は連れ戻したい。けど、それは無理やろ。」
「なぜそう思う?」
やっとの思いで少年は本心を告げた。しかし、すぐに船長からそれをさらに掘り下げられる。少年はさらに、見たくない自身の本心を見せて見せられてしまう。
「俺になに、も、何も告げず、行って、しまったからや。」
少年は悔しかった。何もできなかったのだから。この島に来てからリールと最も長いこといたのに、きっと出ていたであろう予兆に気づけなかったのだから。
少年は恥じた。船長に嫉妬したことに。船長にだけリールが船を降りることを知らせたのには確たる理由がある。そうしなければ船員たちがリールを探すことになるからである。誰にも何も言わずにそこからいなくなるのでは唯の失踪である。自身の意思で船を降りると表明するには、団に属した者として、最低限、船長にはそのことを伝えなければならないのは明らかである。
「お前は、何でそんなに自信を持てないんだ?」
「おっさんにはちゃんと話つけたんちゃうんか、リールは! 俺には何も言ってくれんかったんやぞ。俺には止めるチャンスすら与えられんかったんやから……。」
長く続いた沈黙。このまま黙り込む様子だった少年が、堰が崩れるように気持ちを垂れ流す。勢いよく振り上げられた少年の拳と啖呵は、情けなく、へし折れた。
「あいつがお前に何も言わずに行くなんてこと、望んでするわけないだろ。」
「……なんでおっさんにそんなこと分かるんや!!! やとしたら、俺は一体これまで何を見てたんや、もう、もう、あかんわ、俺。」
「リールは俺たちに常に壁を作って接していた。どうも、俺たちの仲間になることを怖れていたように俺には見えた。今回のような時がいつか来ると思ってたんだろうなあ。いつか無理やり連れ戻される時が来ると。だから、俺たちと常に距離を取っていた。知り合いの距離だ。ある程度仲良くするが離れ離れになっても心が痛まない距離。そういう距離感だった。」
「だがな、お前への対応は何か違ったんだよ。それが何とは言わんがな。」
「リールを追うなら追えばいい。俺たちはこれから約2ヶ月後に東京に着く。そして、そこから北へと向かう。リールの実家は東京だ。お前が単独で説得しに行くんだって言うんなら行けばいい。東京フロート港区。そこで俺たちは一週間程度滞在する。合流したければ合流しろ。しなくても構わん。」
「え、それってどういう……。」
戸惑う少年に対し、言葉の鞭が振るわれた。
「釣人旅団、船長として命じる。お前を除籍する。」
除籍の一言で再び感情を爆発させた少年が暫くの間部屋の中で暴れ回った。船長はただそれを止めるでもなく、じっと見ているだけだった。そして少年が落ち着いたころ、船長は回りくどかった自身の意図を真っ直ぐに伝えた。放心してその場に座り込んだ少年に対して、席から立ち上がってその両肩を掴み、支えるようにして話しかけた。
「――。だから、好きにしろってことだ。お前、この船の船員のままだとお前が本当に思う通りに行動できないだろ、まだ。それに、まだ覚悟、できてないんだろ。お前がこれから俺についてくるにしろ、こないにしろ、貯まった問題片付けろ。この際にな。」
意識が体から抜けていた少年であったが、その肩から何か暖かさを感じて意識を取り戻す。すると、船長の言葉が聞こえてきたのだ。それを聞いた少年の目に光が僅かだが戻ってきた。
「悪いが俺は手を貸す気はない。自分の頭を使ってそこまでたどり着け。俺はリールの意思を尊重して奴が降りることを認めたんだ。それがあいつにとって本意でもそうでなくとも、奴はそう振舞った。それを受け入れた以上、俺は手伝えないんだよ。」
そして、少年の心が何とか立っていることを確かめた船長は、その重みをもたれかからせてくる少年を一気に突き放した。
「お前は自分の気持ちに従って行動できないのか! 行けよ、たったと!」
机から身を乗り出して、その日一番の大声で少年の背中を船長は押す。刺激を受けて、少年の心は励起した。少年は、涙を堪え、踵を翻し、そのまま走り去っていった。船長はどんどん離れていって小さくなっていく少年が見えなくなるまで、ずっとその方向を見つめていたのだった。
少年はその日、船を降りた。




