第五十二話 少年に足りないもの
少年はその夜、夢を見た。昔母親に言われたことを夢に見ていた。
「一本! あなたはなんでそう空気を読まずにずけずけ人を傷つけるの?」
少年の母親。少年よりも少し浅黒い肌をしていて、黒髪直毛の短髪。目の色は茶色い。顔のつくりはリールに非常によく似ていた。背丈も同程度。服装は、その時は長袖Tシャツと長袖Gパンの上に白いエプロンをつけていた。
母親は少年を叱っていた。夢の中の少年は右下を向く。少し耳障りな音が聞こえてきたからである。そこにいたのは一人の男の子だった。少年の家に近くに住んでいる子供だった。その子供はひたすら泣き続けており、少年の母親が話しかけても一向にそれを無視して泣き続けていた。少年はそれを見ていらいらする。
「おい、お前。いい加減に泣き止めよ。何も言わなかったら俺の言い分しか通らへんぞ!」
凄む少年。少年は当時から筋肉質であり、かなり厳つかった。当然その子供は更に激しく泣き出す。その声はとても大きかったため、周囲の家から大人たちが出てきた。何があったのか少年の母親に聞き、責める。少年の母親はそれにただ頭を下げてへり下っている。
「おいっ、お前ら! 悪いのは俺や! 母ちゃんは何も悪くないんやあああああ!」
少年は大声で威嚇し、母親の周りに集まっていた大人たちを追い払う。
バシーン!
少年の頬に母親の平手が炸裂した。その余りの音の大きさに大人たちもあっけにとられた。
「一本、落ち着いたかしら?」
母親は中腰になり、少年の両頬を両手で押さえる。少年の口から二の言葉が出ないようにするためである。言葉が出た場合、直ぐに塞げる。
「うん……」
少年はしょんぼりと、そう小さく声にした。その横で先ほどの子供は少年とその母親を馬鹿にしたように笑っていた。そう。これはその子供が全面的に悪かったのだ。しかし、少年を怒らせて自分が怖い思いをしたために困らせて恥をかかせてやろうとしてやったことだったのだ。
事の始まりはこうである。少年が家の外で座り込んで図鑑を読んでいた。その図鑑は、前時代の様々な海生生物についてのものだった。特に、深海魚と呼ばれる太陽の光の届かない海の底に生息する魚についての記述とイラストが充実していた。
そこに一人の子供がやって来る。そしてその本を見てこう言う。
「え、気持ち悪いよそれ……。なんで一本くんそれ見て楽しそうにしてるの? 気持ち悪ぅ~。」
そしてその図鑑に向かって唾を吐いた。それは当然図鑑に付着する。少年は当然激怒した。言われたことに怒っていたのではなかった。貴重な図鑑に唾をかけるその子供の神経にむかっとしたのだった。こんな思想回路、普通の子供は当然持っていない。大人ならきっと理解できるだろうが。しかし、少年の目の前にいるのは子供なのだ。ただ悪戯してやろうと唾を軽い気持ちで吐いただけだった。少年は普段からあまり口数も無く、揉め事になってもすぐに引き下がるため、何か悪戯をされることは多かったのだ。ただの悪戯なら少年は受け流すが、今回は違った。
「おい、お前! 何したか分かってんのかぁぁぁつ!」
本に付着した唾を地面に吸わせた後、少年はそれを置き、子供の襟首を凄い勢いで掴み、鬼の形相で凄んだ。
「うわぁぁぁぁぁ!」
その場で子供は泣き出した。怖かったからである。そのような反撃は到底想像できなかったのだから。とりあえず子供は泣き続けることでその場を繋いだ。泣き始めると少年が少し戸惑った様子を見せたからである。そして、自身を怖がらせた少年を困らせてやろうと泣き続けることにした。そうすることで大人たちが来て、この少年を叱るはずだからである。無口な少年はきっと何も言わず、自分の言い分が全て通るだろうとこの狡賢い悪戯少年は見越していたのだ。
バシーン!
バシ、バシン、バシ。
子供は自身の母親からひたすらぶたれ続けていた。さらに、その理由を全く理解できずにいた。子供はぶたれながらも尋ねる。
「ど、どうし、て、僕が、怒れれな、くちゃ、い、け……。」
訳が分からなくて本当に泣き出しているその子供はやっとの思いで、その言葉を口にした。
「お前は屑だ。だからそうなるのは当然なんや!」
答えたのは母親ではなくて少年。それも、述べられたのは理論整然とした理由ではなく、ただの感情論であった。周囲の大人たちはただぽかんとするばかり。少年の母親を除いて。
「一本! あなたはなんでそう空気を読まずにずけずけ人を傷つけるの?」
少年は目を覚ます。そして、部屋に自分一人しかいないことを確認した後、少年は外へ出た。まだ周囲は少し暗い。朝にはなっているだろうがまだ早朝であった。冷たい風が吹き降ろす。
『俺は相手のことを考えられていない。自分の考えを出しすぎるんや。それでみんなを困らせる。村でもそうだった。だから、母ちゃんをたびたびああやって怒らせてたんやな……。どうやら俺の問題は一つじゃないらしい……。』
日が昇ってきて、周囲が明るくなってきていた。少年は外に立ったまま、長いこと考え込んでいたのだ。少年は建物の中へと戻っていった。




