第五十一話 少年の畏れ
「リールお姉ちゃん、俺はこれまできっといい加減な気持ちでこの船で旅をしてきたんやと思う。まだ一ヶ月ほどやけどな。」
リールの横に座ってしばらく語っている少年。会話になっていない。
「……。」
依然としてリールからの返事はない。少年の相談を聞くことは受け入れたが、それに返答できるほど、今の彼女には余裕がなかったのだ。彼女の仲の良かった船員二人が今回犠牲になってしまったのだから。
『ポンちゃん、私のこともちゃんと考えてよ……。私は君の相談に乗れるほど余裕はないの。そっとしておくか、できたら、私が君に自分のことをめいいっぱい相談したいのよ……。分かってよ、私の態度で。察してよ、それくらい。あなたならそれができるでしょ……。』
少年にも余裕はない。まだ子供なのだから、本来相手の気遣いなど到底無理なのだ。それを高いレベルで普段こなす少年が異常なだけなのだ。しかしそれもあくまで子供としてはである。限界があるのだ。それどころか、少年は自身の心が乱れているときは、並みの子供以上に状況を正確に見れなくなってしまう。視野が極限まで狭まり、自身のことのみしか考えられなくなってしまうのだ。そういう回路があの村での生活ですっかりできてしまっていた。そのことをまだリールは気づけていない。
「俺はさ、家族が釣りで死んでも釣りが辞められないほど釣りが好きや。でもな、これ以上、俺が釣りをしていて目の前で誰かが死ぬのに耐えられるか考えたらかなり怪しいところがある。」
「俺は自分がどうしたいのか分からないかもしれんねん。」
少年の心からの一言。しかし、それは甘えである。独りで判断しないといけないことを相談によって解決しようとしているのだから。自身の人生の掛かった決断。それは決して他人に委ねてはならないのだ。それがどれだけ親しいものであったとしても。
少年のその一言にリールはとうとう反応した。顔には生気はなく、沈み込んだままである。しかし、その目には力が篭っていた。怒りがそこにはあったのだ。リールは生気のない、しかし、据わった目つきをして少年に迫る。
「それはきっと、ポンくんが釣りを続けられているのはポンくん自身が覚悟してたからじゃなくて、そうするしかなかったからじゃないのかしら。あなたは覚悟なんてできてなかった。だから、腹の中の島では考えなしに海に飛び込んで、今回は意識を失ってそこから逃げたのよ。」
少年はリールから浴びせられた重い見解に愕然とした。彼女だけは常に自身を暖かく覆ってくれると思っていたのだから。
「あなたは本当に釣りをやっていきたいの? それは揺るがないものなの? 長いこと釣りをやっている私たちでさえも、ちょっとしたきっかけでその覚悟は崩れて、諦めちゃうのよ。あなたはどうなの? たとえ何が起こってもこの先釣りを続けていける? 私たちは一年のほとんどを海で過ごすわ。あなたがそこで釣りを諦めたくなってもそう簡単には岸に戻れないことだってある。それでもあなたは壊れないでいられる? 私にはとてもそうは思えないわ。」
そう言って、少年から背を背け、リールは部屋から出て行った。少年の返答を待つこともなく。リールもとうとう理解してきたのだ。少年が自分に依存してきていることに。そして自身も少年に依存してきていることに。それはこの厳しい時代では決して悪いことではない。しかし、釣り人として、それも海を征く者としては悪いことだった。隣にいるべき人がいなくなるだけで崩れるようではこの先やっていけないのだから。独りになったとしても、心折れずに真っ直ぐ進むことができない者に、この時代、モンスターフィッシャーの称号を持つ現役の釣り人でいる資格はないのだから。
少年はその場で塞ぎ込んでいた。リールが部屋を出てから数時間は経過していた。少年は考えていた。おそらく、リールが今晩部屋に戻って来ないことを。それはこの先も続くかもしれないということを。
不安に陥る。頼るものに餓えていた少年の目の前に突如現れた母性。それにこれまでずっと飛びついていたのだから。何かあればすぐに頼った。考えなしに。相手のことを考えずに。
『リールお姉ちゃんにも悩みはあった。俺よりも今回の悲しみはずっと大きかったはずや。親しそうにしてた船員の人が死んだんやから……。俺なんてまだ付き合いが浅いからこの程度の傷で済んだ。でもお姉ちゃんはきっと、悩んでるはずや。下手したら船から下りることを考えるほどに。あれはきっと俺にだけの言葉やなかったんや、お姉ちゃんがお姉ちゃん自身のために言った言葉でもあるような気がする。』
「はぁ……」
少年は溜息を漏らす。頭を冷やせば容易に気づけたこと。それを見逃して、ずけずけとリールの心を傷つけたのだから。今のリールには少年の相談に乗る余裕など全くなかったのだから。
『明日謝らななあ……』
少年はそのまま床に就いた。島に来て初めての、隣に誰もいない独りの夜だった。




