第三百二十八話 青と月光の想
飛び込んだのは、暗い海だった筈。
不意に眩しさを感じ、目を瞑ると、その直後、下から押し上げるような水流。
ざばぁぁぁんんんん!
そのまま、海水面上に全身が出るくらい、押し上げられて、宙を舞うように、飛んでゆく。
叩きつけられた先は、ふかふかの砂浜。それでも、衣服がもってきた水のせいで、結構激しい衝撃を少年は受けた。
「はぁ、はぁ、ぐぶっ、はぁ、はぁ」
らしくない、やらかした。水も飲んでしまった上、変なところまで入ってしまっていて、咽る。
目を開け、空を仰ぐ。
ザァァ、ザァァァァァァ――
月光が強く差す。
雲があったわけでもなく、月の遠いよるであった筈なのに。大きな満月が、青白く、当たりを照らしていた。
砂浜を歩く。普通のそれより、足裏に張り付いてくるような気がした。
足裏を、持ち上げるように上げて、見ると、青い絵の具が溶かれて、べっちょりとくっついたかのように。
少し混ざるように、金色が見える。
そして、周囲を見渡す。
「何処やねん、ここ……」
少年は独り、黄昏た。
流された覚えもない。砂浜なんて、あの崖の上からは影も形もなかったのに。
ただ、あの崖は、存在している……。
足跡などの、リールの痕跡は無い。当然、リールの姿はない。砂浜にも。海にも。
海側は、ひたすら海が広がっているだけだ波はそうら立っておらず、穏やかな海だ。もしもリールがそこを泳いでいたのなら、少年の視力ならそう労せず、見つけられただろう。
浜と、その背後の崖側。崖まではなだらかな砂浜。地面に突っ伏してでもいれば見つけるのは困難かもしれないが――少年は自身の足裏を見る。
「……」
愛も変わらず、気持ち悪かった。ねっとり、溶けてまとわりつく砂か絵の具か分からないような肌触りのその砂。
こんなものに、塗れてじっとしているなんてことは無理だろうと判断する。それにリールの様子のおかしさからして、隠れんぼだなんてありえない。
少年はだから思った。
(落ちて、へん……?)
聳え立つ崖。見上げてみる。せりたつように上へのびていて、頂付近にかけては、鳥のクチバシのようにそりたっている。
登るなんてまず無理。壁面には、横穴どころか、かくれられるような凹凸は無い。
(登れんのやろうな……。じゃあ、裏側、は?)
そう。この浜辺。崖の向こう、側面、見えないところにいるだけではないのか? そう思い、足裏のべたつきを煩わしい程度に感じられる位に慣れる時間歩き続け、崖の左端に着く。幸いにも、ちゃんと終端は歩いて到達できる距離にあった、ということである。
それでも、どうやらここが、孤島とかではないのか、と、少年は不味みを感じ始めていたが、労力がどれだけ掛かろうとも、リールを探すのをやめるという選択肢はなかった。
そもそも、戻り方も分からないのだから。
そうして、脇に回ろうとしたら――何の予兆もなく、唐突に、そこは、不思議に包まれる前の、打ち捨てられ、90度くらい傾いて沈む、あの部屋の中だった。
「……」
言葉も出ない。ただ、苦悩するように困惑するしかない。あの崖への経路はそんなもの最初から無かったかのように消えており、その部屋にリールの姿は無いのだから。
落ち着こうと、座り込む。目を瞑って、心臓に手を当てると、バクバクと鳴っていた。自分の焦燥の程を知った。そうして、落ち着く。
「……。ん?」
部屋の片隅、さっきは気づかなかったが、薄く、微かな気配がした。
それは、少年がよぉく知っている気配。モンスターフィッシュの気配。正確にはその死体か加工物の気配。壁面だった地面に横たわるそれの存在に気づいて、手に取った。
先ほど存在に気づかなかったそれは、リールが持っていたのか、最初からそこにあったのか……。
(これの、仕業、なんか? やけど、どう、使うんや?)
少年はそれを手にとって、角度を変えて見ながら、首を傾げる。それは、古めかしい、ステンドグラスの外套を纏ったランプだった。
そして、気配は、そのステンドグラスからしてきていた。
薄暗いことには変わりなく、よく見えない。周囲を照らす術はない。それには、灯りを付けるための機構が見当たらない。
だが、その表面はほんのり暖かかった。まるで、ほんのさっきまで灯いていたかのように。使い方はわからない。けど、たぶんこれの仕業だと少年の勘は言っていた。
幻なんてありはしない。それが常識ではあるけれども、モンスターフィッシュの力によるものならば、常識の外。在り得る。
少年は再び座り込み、目を瞑り、考える。
幻を見せられていた。一体、いつから? それがわからないと多分、リールを見つけることはできない。おそらくここは、闇雲に探すには思っていた以上に広すぎるのだから。
「……。…………。この、部屋じゃあ、ない」
少年は目を開けて、立ち上がった。
見渡す。考える。見渡す。考える。
(鼻がきく場所やない。じゃあ、どうやって、扉の場所を確かめる?)
足元を見る。
(壁……。 ん? 壁……? じゃあ、隣は、別の部屋か、外。けど、外は、ヘドロか土か瓦礫。放り出される訳やあない)
きっ、と少年は目を見開いた。大きく息は吸えないけど、踏ん張った。そして、壁だった地面を蹴り、床だった壁を跳ね、壁だった天井を蹴り抜くつもりで、蹴り上げる。貫いた。引き抜いた。そして、空中でくるりと回転し、手をその穴の先に掛ける。腕の力だけでよじ登ってみたが、そこにはリールはいなかった。何もめぼしいものは落ちていなかった。
穴から降りるついでに、元の部屋の、床だった地面へ、重力を加えて、思いっきり衝撃を加えた。が――ガグゥォォォォンン!
何か大きく重く、揺れ動いた音がして、少年は吹き飛びそうになる。それに何とか耐えようとしていたら――バキャッ!
足元が砕けた。そして、その下には、虚空が続いている。
穴は少年の身長よりもずっと大きく、為す術は無い。 部屋は悉く、砕け、崩れてゆく。目に見える、崩落してゆく全てと共に、落ちてゆくことを強制される。
慣れ切ったはずだったのに、なおも強烈に感じた、ヘドロと苔の臭いの咽<むせ>かえりと共に。その鮮明さがこれが幻ではないことを証明している。
予兆すらなかった、予想だなにしなかった不意な、不注意が招いた事態。だが、他にどうすればよかったというのか……。
「っ! ああああああああーー」
少年は叫び、上を仰ぎながら、手を、足を空ぶって、落ちてゆくことしかできなかった。




