第三百二十七話 ねじれの部屋
ほんの少し、遡る。
地面に埋もれていた扉を踏み抜いて、落ちたとき――彼女は自身の殻に囚われたかのよう。
(もう、何も残ってないんだね。もう私を知る人はいない。私の過去も残っていない。記録にさえ残らない、もう、一度死んだようなもの)
少年が見えていない。
少年の声が聞こえていない。
確かに彼女にとって、少年は大事だ。短期間。けれども濃密。強く感じた運命。自分を連れ出してくれた小さな騎士様、大仰に言えば白馬の王子様の体現といってもいいのかもしれない。
だが、積み重ねが人の生だというのなら、少年との出会い以前も決して薄くなかった彼女の生であり、少年との出会い以前が、量としては圧倒的なのだからこそ、彼女は自身の大半を、いや、殆どを失ったようなものだ。
もう、個人としての意味が死んだようなもの。一度死んだようなものという彼女自身の形容は、どうしようも無いくらい正確な認識だった。
そんななのだ。あるはずのないものを見たとしても仕方ない。例えばそれは、思い出混じりの幻想。
幼い頃の自分。小さなお姫様じみた格好をしていて、肌も灼けておらず白く、髪も海風と太陽の照射にやられておらず、ひらひらと、無邪気にひとり、暗闇の中、舞う――不満なんて感情が生まれる前の自身を俯瞰する。
なぜそんなものを見るのか。決まっている。後悔に塗れているからだ。
遠くにうっすら、浮かび上がるかのよう。壁が透けて、消えて、広がる闇の先、亡き父親の、若かりし頃の、厳しさなんて微塵もまだ無かった頃の、視線。
降りて、ゆく。
誘われるかのように。横転した部屋。天井だった壁面を、朧げな意識の中意思なく押すと、まるで、押し戸が開くかのように、壁は縦長なコの字にもげ、奥へ向けて折れ曲がった。
彼女は、頭の中の光景と重なるその場所で、答え合わせを、した――
(どうしたら、ええんや……。怖い。怖い。怖いんや……。間違ったら、お姉ちゃん、ほんまに、壊れちゃうかも……しれへん……)
変わらず何もできない少年。
変わらず何も――ガコン、ゴォォォンンン!
リールの目の前の壁面。そこにリールが手を翳し、押し、すると、扉の形に凹み、上にあがってゆく。暗闇が広がっており、リールは真っすぐその中へ消えていった。
「えっ……?」
少年は呆然とした。
間違ってはいけない。そんな状況は多分続いているから。だけど、リールが動いた。なら、こちらも何か行動を、返答を、しなくてはならない。
少年にとって、選ばない、何もしない、という選択肢は無い。何もできなかった、という結果は在り得るかもしれないが、何もしないという意思は無い。育ったあの島での顛末が、呪いのように少年につきまとっているから。
少年は重い足をなんとか一歩、前に薦めた。
迷いは相変わらずあった。
心ここに在らずで、意識も半分無いかのような。そんなリールを追わないわけにはいかないが、追いかけて、どうすればいいかなんて分からない。
追いかけなければ猶予はある。けれど、それは、時間切れを迎えたら、吹き飛ぶ。
(追いかけるしか……ないんや……)
少年は不安に耐えながら、後を追った。
足音もなく。ただ、離れていく。
真っ暗だ。だというのに、リールの姿だけが見えるのだから。
そんな奇妙なことが起こっている。
そもそも、この場所が、そんなリールが小さく見えるくらいまで自分から離れてしまえるほど大きな場所とはどうにも思えない。
不安極まって自分は幻を見ているかもしれない、と少年は思う。思ったところでどうにもならない、とも。
とにかく、見失うわけにはいかない。見失うなんてことがあるかすら分からないけれども。自身の足音も鳴らない、どうも足元の固さもあるかないか分からないような異質な足元を気にするのをやめて、
(手遅れだけは……)
躊躇なく走り出す。
音のない地面。あがる自身の息と熱。流れ始める汗。まるで詰まらない距離。追いつけるのだろうか。このまま引き離されて、見失ってしまうのだろうか。
それでも少年は、足を止めることなく走り続け――やがて、無音は終わりを告げた。
グォォウウウウウウウウ――
冷たい風と潮の臭い。
暗い、海。せり出した崖に、いつのまにか出ていた。
リールの姿は、無い……。広がる、蒼く、黒い、しかし、瞬く海。吐く、自身の息が白い。
ざぁぁ、ざぁぁぁぁぁ
「夜。誰にも見られることのない、暗い海辺。この下は砂浜と浅瀬。どこにもいないと思った時は、いつも、父上はそこにいるの。ほら」
声が、聞こえた。かと思うと、気づいた。崖の先端。いつもより、小さく見える。こちらを向いて、指差す、海の方。表情は、暗くて見えない。
近づこうと、歩を進めると――倒れ込むように、リールらしきその人影は、落ち、消える。着水音は聞こえてこない。
耐えきれず、駆け出した。そうして、躊躇なく、崖の先端で横たわり、崖下を見た。
建物数回分な高さがあるように少年の目には見えた。崖の岩肌に、横穴や、何かぶつかった痕跡は無い。そして、これだけ下までが遠い崖なら、と思い至り、だからこそ、即決した。
躊躇する時間や後先を考える時間すら惜しいから。
海の、いっそう黒く見える、深いだろう部分へ向けて、真っすぐ飛び込んだ。




