第四十八話 龍との綱引き
戦いの幕は切って落された。その生物と船との距離はおよそ50m程度。船員たちはタイミングを合わせ、力強く竿を引く。
「んぐぅ。」
「ぎぃぃぃぃぃっ!」
「うぬん。」
「くっ、はぁ、くぅ。」
「ぐぅおおおおお!」
一心不乱に力を込め、竿をしっかりとホールドし、全体重を後ろへと掛ける船員たち。体から汗が湧き上がり蒸気となる。しかし、その生物もそれとは逆方向へ泳いでいこうとする。動きの様子から全力でないのは船員たちの誰もが理解できた。その生物は遊んでいたのだ、船員たちと。ただ、釣り人たちをからかいに来ただけのようにも見える。船員たちの体力はどんどんと減らされていく。
「ぅ、はぁ、はぁ。おい、交代だ。もう力出ねえ。」
「頼み、ますよ」
「あんた、続き、は頼んだよ。」
「っ、ちょっと手休めてくるわ。」
「ほんと、あれ、なんつう、力してんだ。」
その生物と相対してから3時間が経過していた。最初のメンバーは、竿の前の方から順番に次のメンバーへ竿を引き渡していく。約15分ごとにメンバーをローテーションすることにしていたのだ。一度に竿を持って、効率よく力を込められる人数は9人であることをあらかじめ確かめていたからだ。この船に現在乗っている船員は全員で36名。4チームでローテーションを回しているのだ。
ばたっ。
突然聞こえてきた何かが倒れるような音。それは船員の一人が倒れた音だったのだ。両手で抱え込み、全力で力を込め続けるのだ、そのうち誰かがそうなることは必然だったのだ。
「船……長……。」
その船員はそう言い残して意識を失った。船員たちはそれを目にして事態の重さを悟った。その生物が人と比べて大きな力を持ち、本気すら出していないものの、自分たちと拮抗、いや、わずかに強い力を持っていることを。その生物の力の底が見えないことを。持久戦になりつつあり、自分たちはどんどん不利になるだろうということを。
雲行きが怪しくなっていく。はじめは雲ひとつなかった空が白み始めた。
「みなさん聞いてください。このままでは私たちに勝ち目はありません。ジリ貧です。体力をがりがりと削られていくだけです。先ほど倒れた彼のように、次々と倒れる人が出始めるのは時間の問題です。」
その生物と相対してから5時間が経っていた。周囲一帯は曇り、少し暗くなってきていた。倒れた人数は4人。他の船員たちの疲れもより重いものへとなっていた。自身が竿を引く時間を終えて30分経過して息を整えた座曳が疲れの見え始めている船員たちに提起する。当然船員たちもこのまでは詰むということは分かっている。しかし、打つ手を誰もが思いつけないでいたのだ。状況が特殊すぎるために。
まず、今回使っている竿が、余りに特殊であること。船員たちは釣り人である。だから、竿は使っても、丸太は使わない、抱えない。
次に、糸にあたる部分が以上に強靭であること。釣りでは、ただ闇雲に糸を引っ張って手繰り寄せようとすれば、糸は切れて釣りにならない。そのため、釣り人たちは魚にある程度合わせつつ自身のペースへ引き込み、緩急をつけて糸を引いていく。主導権を握って。しかし、今回の糸は、糸ではない。植物の蔦である。糸の性質を持っていないのだ。どれだけ引っ張っても切れはしない。そのため、緩急をつけることを忘れ、船員たちはただ竿を引いてしまっているのだ。
さらに、大人数で一本の竿を扱っていること。普通、釣り人は自身の手で魚を釣り上げようとするので、三人以上とは共に竿を握ることはないのだ。それを行うのは、効率よく魚を得ることを重視する漁師か、殲滅を意識している状態の狩人くらいなのだ。
最後に、獲物が全力で挑んでこないことである。釣り人たち、特にモンスタフィッシャーは獲物と命を賭けて戦うのだ。手を抜いているものの相手。それは船員たちの熱意の純度を下げていた。
それまで深刻そうな顔をして沈黙を守っていた船長がそこで口を開いた。
「お前ら、ここまで俺に付き合ってくれてありがとよ。まず礼言っておくぜ。そして、俺は今決めた。残り人数が半分切ったら今回の勝負は終わりだ。全員ぶっ倒れてしまうわけにゃいかねえからな。それにな、俺たちは嘗めてかかってたんだ。こうなるのは当然さ。駄目ならまた後でやり直せばいいんだからよ。」
船長の顔に笑いはない。それを真顔で船員たちに伝えたのである。船員たちも自分たちの気の緩みに気が付いた。
「誰か考えはねえか? 何でもいい。このままよりはましだからな。」
その生物と相対し始めてから6時間が経過していた。倒れた船員の数は二桁に届いてしまっていた。船長は目に力を入れ、手を使ってその必死さを訴える。先ほどの言葉、釣り上げるのは今度ではいいという言葉は船長の本心ではない。相手は海を泳ぐものであり、いつその前から消えてしまうか分からないのだ。脅威玉による標識も何日保つかは未知数なのだ。
この先無理をしても望みはないことをしっかり理解してはいるが、諦めきれないでいたのだ。それだけの人数の船員が倒れているのだから。ここで切り上げるべきだったのだ、本当なら。
『なんとしても、ここで釣り上げて、あいつの墓の前でそのことを話したい。だが、このままだったら全員倒れちまう。相手がいつまでも俺たちに付き合ってくれるとも限らねえ……やっぱりここで釣り上げねえといけねえか……。いや、もうだめだ、帰ろう、チャンスはまだきっと――』
船長が決意を新たにし、口を再び開こうとしたとき、怖れていたことが、密かに船長が怖れていたことが起こった。
「うそっ……、くううううううううぅ。」
「これ、までと、は、違いすぅ。」
「ぐぅぅぅおおおぉ!」
「だ、だめだ、もう。」
「引きずられ、……。」
ドボン、ドボン、ドボン、――ドボン。
ズゥアアアアアアアアア、ゴシャアアアーッ!
そのとき竿を引く役をやっていた船員たち全員が船から落ちてその生物に飲み込まれたのだ……。
「うわああああああああ!」
バタン。
少年が大声を上げて倒れた。泡を吹いて白目を剥いている。釣りにおいて誰かが死ぬこと。それは少年の心の傷なのだ。家族全員をそれで失っているのだから。これ以上誰か、よりによって、家族同然に親しくなってきていた船員たちを同時に十人失ったのだ。もう耐えられなかったのだ。意識を落して逃避したのだ。
「くっそぉぉぉぉぉぉぉぉ、俺のせいで、俺のせいでよ……。だが、だが、まだ飲まれたばかりだ。海面が真っ赤に染まっていないし、噛んで飲み込まれたんだとは思えねえ。お前ら、予定変更だ、これは狩り。今からこれは狩りだ。やつを殺して落ちた奴らを一刻も早く引き上げろ!!! 各自持ち場につけ!!!」
残された船員たちは、船長のその言葉で、一瞬折れかけた心を建て直し、迅速に動き始めた。船長が痩せ我慢していることは誰の目からも明らかで、見ている船員たちは自分たちよりも遥かに惨めに、情けなく、折れそうに見えた船長を見て心に火を付けたのだ。船長の足は震え、声は一見力強そうだが淀み、顔は一見怒りに塗れてそうだが次の瞬間にもぐちゃぐちゃに崩れそうだったのだから。
船員たちはこれまでこの船長に長い間ついてきたのだ。だから、このような失態は何度か訪れた。その度に船を下りたり、この世から消えてしまった者もいたのだ。それでも今ここにいる船員たちはその船長に失望しない。そんなとき、船長は決して逃げなかったからだ。自身にできることを必死で探し、足掻いたからだ。そんな人間を見捨てて、責任を全て被せて逃げられるような者はここにはいなかった。
「あんの、化け物め!」
「殲滅だ、なんとしても打ち倒す。」
「もう倒れて、は、いられ、ない、わ、ね。」
「まだ、生き、てるか、も、しれな、いん、だ。」
「……。」
気力だけで起き上がってきた船員や、なんの言葉も出ない船員も、殺意をその身から放出し、狩人へと変貌するのだった。もう、戦いは終わったのだ。ここからは斃し合いなのだから。
その生物と相対し始めてから7時間が経過しようとしていた。周囲はすっかり暗くなり、日の長い夏であるがもう辺りから光は消えようとしているところだった。




