第三百二十五話 へどりつく泥の山
あの通路を進んで、ところどころに見えた、ついた日が違うであろう多くの傷と、痕跡。ヘドロと苔の混ざった塊と、その中に刺さる、数多の物品。そこからは、ほのかに生活臭がした。
「ん?」
少年は、光るものを目にし、目についたヘドロと苔の山の側面から飛び出ていたそれを掴んだ。
気持ち悪い、まとわりつくような感触と、ぬめってはいつつも、硬い、多分両端が閉じた筒状の何か。
ばこっ。
引き抜いた。そして、引っこ抜けた。それは、扉の取っ手だった。少年はそれをじいっと見て、何かに気づいたようで、リールに尋ねる。
「お姉ちゃん、これ」
取っ手側面。扉に向けて垂直で、目につく側。
刻印がそこにはあった。リールの家で見た、あの刻印。
「まさか……」
リールは顔色を悪くして何か考え始めた。
少年は不安を浮かべつつも、リールに催促はしなかった。ただ、耐えるように待つ。そうして、時間が流れた。数分経って。数十分経って。
「そういうことーーだったのね」
リールはそう呟いた。何だか腑に落ちた様子で。
それでも少年は動かず、催促したくなる自身を抑えていた。
自身の気持ちを呑み込めたリールは、やっと、少年のそんな様子に気づいた。
「ポンちゃん。そんな顔しなくてもちゃんと説明するわよ」
少年はごくり、と生唾を飲み込んで、こくん、と頷いた。そうして、リールは話し始める。
「多分だけど、今ここを統治してる奴は、この下水のことを知っているわ。しかも、私よりも、それどころか、父上よりも。もしかしたら、ここの水の流れを制御する術を知っているのかもしれない。それどころか、ここの失われた本当の使い方も」
リールは言葉を選んだ。言い方を選んだ。今から話そうとしていることの本意を、本質を、正しい筋道で伝えるために。
「下水道、ちゃうん?」
少年は首を傾げる。
今からするのは難しい話だ。
「そうだけど、それだけじゃないの。他にもたくさん役割があった。この東京フロートが、世界がリセットされた大津波で、失くならなかった理由がここなんじゃないかって、父上から聞かされたことがあるの」
前提となる知識が少年には無いのだから。そしてこれは世界の裏側にまつわる話。確かに少年は、自身に巻き込まれてあの海の底でそれに触れたがあくまで一端でしかないのだから。その証拠に、
「ふぅん」
ほら。少年は興味を示さない。
「あんまりこういう話って興味ない?」
だけど……。少年は、尖って鋭い。その知識も、能力も。だからこその、危うさというか、怖さをが、どこかしら在るのだ。だから、こんな変なことを尋ねたのだった。
「そういう訳やないんやけど、なんか急に話が大きくなりすぎて実感湧かへんのよ。想像できなくなった、みたいな?」
それを聞いてリールは安心したのだった。
「不思議ねぇ。ふふ」
微笑ましいものを見た。そうリールは思った。少年の知識の偏りの歪さと、そこから覗いた年相応の無知で正直な子供らしさを愛らしく思った。少年の答えはとてもしっかりとしたものであり、分からないと思考するのをやめた訳でもなく、変に分かった風にふるまうのでもなく、尖った斜め上の回答でもなかったから。
「っと、いけない。気を、引き締めないと。今…やるべきことだけの話にしましょう。ええとね。多分、ここには屋敷からのゴミが流されてきてるはず。多分、一回だけじゃなくて何度かね。だって、扉がくちてたってことは多分、扉が流されてきたのは多分、どれだけ早くても数週間前。あの傷は下手したら数時間前。私たちがここに潜るよりは多分前だから」
リールはそう頑張って説明する。
「うーん、色々埋まってるってこと?」
らしくなく察しの悪い少年。
「そう。だから、探すの。手掛かりを。屋敷の中が、ゴミからきっと垣間見れるから。私が知らないものがどれだけあるか。それが知れれば、私の記憶にこの先で頼っていいかどうか、決めてしまえると思うから」
察してくれなかったからって、別にそれにがっくりなんてしない。口にすれば、
「うん、わかったわ」
こうやって、ちゃんと伝わるから。すると、
「けど、お姉ちゃん。言ってて自分で泣いちゃいそうになること、別に言わんでもええんやで」
少年は、背伸びして、手をのばし、リールの頬の涙を拭った。そうしてリールは、自身の目から知らず溢れていた涙に気づいたのだった。




