第三百二十三話 青空と言う名の嘘
常夏。
晴れ渡った空。果てなく青い天。カモメと人々の喧騒が並んで存在する、変わらぬ筈のそこ。
船着場に揺られる小舟。頭を白い頭巾で覆った少年とリールは沈黙して、顔があまりはっきり見えないよう俯いている。そして、船頭を勤めたガタイのよい男は、もう馴染みとなっているいつもの上陸管理官と些細なやり取りをした。
「再三となりますが確認致します。今回上陸するのは、ルァ=ワンさんと、」
こくん、と少年がぶっきらぼうにうなづいた。
「ルァ=ナスキーさん、で間違いないですね?」
リールが微笑を上品に浮かべうなづいた。
「食料関係の商いでの、一週間の滞在、でしたか。貴方方も随分諦めが悪い。それに今は益々時期が悪いですよ」
「ふぅん。それでもチャンスはチャンスなんでな。御領主様のお墨付き、なんだからよ」
「……。だからこそ、時期が悪い、というのですよ。はぁ。まあ、いいでしょう。今なら私の権限で例外的に許可が出せますから」
「へっ。意味深な顔しやがって。これだから役人って奴は」
「では、私はこれで」
役人の姿が見えなくなるのを待ち、ガタイのよい男は小声で言う。
「本当に、迎えに来なくていいんだな?」
「ええで。もう十分借りは返してもろたからな」
「ええ。大丈夫だから。それにーー巻き込む訳にはいかないから」
手を振る二人。小舟が小さくなって、沖の大型船に格納されていくのを見守って、二人は動き出した。
少年は思う。一見、前来た時と同じような喧騒。だが、何か違うと感じた。
前とは違って順路で入って。正体を隠して。だから前とは違う上陸の景色に多少なるのは当然だけれど、それでも。何と言うか、行き交う人々の喧騒に、影が見えるような。楽しそうに見えても、何処か不安げな影が覗くかのような。
「どうしたの? 行くわよワン」
こくん。少年はうなづいて、リールに並んで歩き出した。浮かべた不安を形容する言葉を持たなかったから。
以前は無かった、大通りのカフェ。
「ナスキー。落ち着いた?」
少年はそうリールに飲み物を口に含むよう催促した。疲れきって、泣き腫れた目で、ケイトは少年を真っ直ぐみた。
「ええ。ワン。聞いて。私、覚悟してたの。もう十分に泣いて、もう十分に絶望して、だからもう、大丈夫って、思ったの。けど、全然、そんなこと、無かったわ」
痩せ我慢するように作り笑顔で言うのだ。枯らさぬよう、叫ぶことを堪えた喉で、穏やかに、けれど微かに震えた声で言うのだ。
「もう、誰もいない。もう、何も、無い。父も。屋敷のみんなも。屋敷そのものも。もう、誰も。もう、何も」
二人は、街中で買い物と商い用の品の物色を名目に、街の人々にそれとなく話を聞きつつ、リールが何度かくらっと倒れそうになりながらも、それでも少年に帯同して、色々と話を聞いて。
雲行きの悪さ。もう風化しかけた過去になった不幸と悲劇。一部の老人が語る、子供の頃に見たという、美化された過去が、ちょうど自分たちが起こした騒ぎそのものを示していて……。
周回遅れな顛末。島野家という領主の一族の断絶。未だ見つからぬ亡骸。新たなる領主への引き継ぎの途絶。周年の慶次を迎え、亡骸探しへと掲示された賞金に亡骸になる前の対象の肖像。
もう、他国の者とでもいうしかないように、縁もゆかりももう、ここには無いのだという、果てなく広がるどうしようものなさを思い知ったリール。
「……。これから、どうする? ここからなら、多分、どこにやって、いける」
ごくっ、ことっ。
「そうね。、何も考えず、流させるように、どこにでも行きたいわ。だってどこだって、ここじゃないどこかだもの」
寂しそうに遠くを見た目でリールは微笑した。、あきらめきったかのように穏やかな声で。
もう、何十年もの隔たりに置いて行かれたなんて、どうでも良くなるくらい、ここを、故郷を、見知らぬ何処かに感じてしまった。変わらぬように、変わり果てた、面影しかない、別の何か。
眩い空を二人は見上げた。カモメの一群が飛んでゆく。ほんの一羽、二羽。抜け落ちるように失速し、流れから逸れて、羽休めするかのように速度を落とし、小さな弧を描くように飛んで、緩やかに、群れとは明後日の方向に飛んでいった。
「私たち、もう、二人ぼっちね」
「せやね。……」
罪悪感ではなく、哀愁に足が沈む自身という光景が少年の脳裏に浮かんだ。
もう、熱はない。自分にも。勿論、目の前のリールにも。
きっと自分たちの冒険は、終わってしまったのだ、と二人は論を交わすこともなく、同じように行き着いた。
二人ぼっち。自分たちの分岐点だったこの地が、自分たちの熱喪う終わりの地になった。どこまでも皮肉染みた結末をきっと、最後の時まで噛み締めつづけることになるのだろう。
そう、締めくくって終わりにしてしまいたいくらい、二人の目的は、上陸早々粉砕されたのだから。
「ねぇ、私たち、何十年前の人になっちゃったのかしら。三十年前、と言われてもね……。そんなの、実感なんてわく訳ない。けど、けど……」
「……。時間が解決してくれる。どんなに辛くたって、うっすらとしか思い出せなくなる。けどー…」
「けど、悲しかったっていう苦しさだけが、いつまでも残り続けるのよね。後悔っていう名前の。そうでしょ、ワン」
(何も、言えない。だって、俺には過去なんてせいぜい十年くらいしかないから。ずっと短いし、知ってる見てる世界も人も少なかったから。俺には、その苦しみは多分ずっと、わからないんやろうな。……)
からん、と、氷が溶け崩れ、グラスが鳴った。
「ナスキー。もうええんちゃう? もう、考えるなんて辞めてまおうよ。全部投げ捨てて、遠くに行こうや。ここじゃないどこかへ。そんで、毎日をダラダラ過ごすんや。何処か遠くの海辺の町で、腹が減ったら釣りをして、それ以外の時間はまったりして。目的なんて考えもせんで、雲が流れる青い空と、波の音を聞いて」
「どう、やって……?」
「手始めに、名前を捨てるんや。そうしたら、あとはなるようになる」
少年はひどく実感のこもった言い方をした。
「難し、そうね」
「そっか。じゃあ、多分まだ、大丈夫やな」
少年はそう言って立ち上がる。
「何、ぽけーっとしとるんよ? 行くんやろ? 確かめたいもんがあるんちゃうの?」
少年がそう言って指差す先。かつてリールの住んでいたあの屋敷が見える。未だ、かつての姿を留めたまま使われているらしい。
「よくわかったわ。私、諦めたくなかったのね」
そう、納得したように立ち上がった。
彼女が諦めたくなかったこと。それは父の生存ではなくて、もっと広く、大きくて、形ないもの。しかし、未だ、消えず存在しているものであることは間違いない。
しかめた顔をして、後方の少年の方を振り返りながらリールは言う。
「きっつい……。昔よりも、酷くなってるわ……。覚悟してね、ポンちゃん」
そこは、町外れ。裏通りの一角。少年に警戒を頼み、リールがマンホールの蓋を開けたところであった。
立ち込めてくる、ヘドロが夏の蒸し暑さに濃縮された臭いを指しての警告の一言であった。
「名前。何処で聞かれるか分からへんのやから」
「っと。ごめんなさい、ワン」
「ナスキー。もう大丈夫そうやな」
「泣くのはもう少し後にすることにしたの。そのときは、貴方の誘いに乗らせて貰うと思う。連れてってね。ここじゃない、穏やかなどこかへ」
臭さに包まれているせいか、唯一綺麗なものであるその笑顔が少年にはとても輝いたものに見えた。
前を向いたリールはそんな少年の気も知らずに、両手を上にのばして合わせて、ストン、と、マンホールの穴へと、軽やかに落ちていった。壁面のコの字の足場を使うことなく。
少年は目に焼きついた光景を振り払いつつ、なんとか落ち着きを保ち、やるべきことをやる。周囲の気配が変わっていないか。誰か隠れてこちらを見ていることを見落としていないか。
臭いが臭いだ。誰かが気付いてもおかしくない。
少年は少し迷った。蓋をきれいに閉めるべきか、ずらしておくべきか。
結局、マンホールの下へと身を潜めた少年は、そろっと、蓋を閉め、闇に包まれ、目が慣れるまでの僅かな間、あの焼きついた光景を反芻していた。
どうして、そんなに焼きつくようにこびりついたのか分からないそれを、少年はただただ、持て余すのだった。
やがて、熱はひととき、冷め、慣れた目で、下へと降りた。




