第三百十九話 悪意の尖兵
エチゼンクラゲ染みた巨大なクラゲは、その触手で、気絶させるところか、麻痺すらさせずに捕えている、虹色殻の蛸に向かって言う。
「君は、抗わないのかね? それではまるで、無抵抗主義者じゃないか。逃げ惑っている彼らを助けるために声をあげるでもなく、私から逃れようと足掻くでもなく。まるで静観している君は。腹の中に何か奇策でも抱えている風でもあるまいに。っ、おや?」
渦巻きながら、まるで矢のように水中でありながら飛んできたそれを、その巨大クラゲは、あまりある数多のふとましい触手の一本で、絡め取るように飲み込んだ。
「なかなかに興味深い。が、小細工にも程がある。もしもこれが、強いものであったなら、意を残して動作させることに意味はあっただろうが。せいぜい、まともに使えるのは陽動くらいだろう。私のような運動音痴に御されるようではなぁ」
「……」
「これで終わり、ではないだろう? 出し惜しむつもりなら、終いにするが。君は長、だろう? なら、権限がある筈だ。君たちの知を。力を。蓄え、築いてきたそれが未だあるというのなら、その権を以て、この程度、押し退けて欲しいのだが。それくらい、君たちにはできる筈だ」
「何がしたいのです?」
虹色殻の蛸は、虚ろなことを言う巨大クラゲに尋ねる。悪意もなく、問い質す。核心を突くかのように。
「何もしたくないよ。この身の通り、ただ、漂っていたい。理不尽にではなく、自由に、静かに、流されていたかった」
「どうやら立場がおありのようで」
「どっしりしている。揺らがない。強い指導者だ。だというのに、動こうともしない。私こそ、問いたいよ。どうして、君は動こうとしない?」
「よおく、見てください。未だ、誰一人、連れ去られていませんよ。ほら。結局、流されて戻ってきているでしょう? この程度じゃあ、未だ未だ」
「ならば、動こうか? 変わるぞ? 戦局が。鍵である君が、敵である私の手に落ちているのだから」
また別の触手が、虹色殻の蛸を更に覆うように巻き付いた。
「そうはなっていませんよ。何故なら、貴方は、失敗したがっている。私は長であり、だからこそ、始祖の記憶を継いでいて。もう、続きの言葉は要らないですね」
「あぁ。此処に来れて、良かっ…―」
巨大クラゲの脳天を、貫いていた。烏賊の頭が。そして、蠢く蛸の足に連動するかのように、じゅるじゅるぬちゅにゅちゅ、と、巨大クラゲへ刺さった烏賊の頭がねちょねちょぐちょぐちょと掻き回されながら、そして、方向は定められ、
「に……げ……」
事切れそうになりながら、最後の声で、巨大クラゲは伝える。
それが想定外であることと、それが恐らく本命な危機であることを。しかし、その悪辣さまでは伝える時間は到底無かった。
赤っぽい斑点が目立つ、白黒い肌。烏賊の頭に、蛸の足。それは、まるで蛸と烏賊をくっつけたかのような姿をした、嘗て実在した海生生物を原型とし、手を加えられて誕生したそれは、後に、このように名付けられた。
モンスターフィッシュ【ギ・マッコウタコイカ】。
それの恐ろしさというのは、持たされた攻撃性そのものではなく、それの結果生じるであろう、感染によるものであることを。
それは、海に於いて知性を狩る。
それは、全ての蛸と烏賊の敵。
それは、本能意外を希釈する。
それは、溶け落ちるように浸透する。
それは、死ぬまで抜け出ない。
それは、植え付けらえるばかりで同種間には伝染してゆかない。
だからこそ、それは恐ろしい。知性持つ者にとって。海で知性といえるだけの知性を持つ、烏賊と蛸にとって。体の体積の関係上、イルカやクジラには影響しない。
小さな彼らだけに、一代限りとしての病。
未だ、彼らは、その設計された恐ろしさを、未だ、知らない。
「っ!」
すんでのところで、身をよじるような動きで、自身の纏う虹色貝殻で逸らすように弾く。
虹色殻の蛸は全速力で動き出した。
足で、瓦礫の山を蹴りながら、加速しながら、背にしていた貝殻を外し、それを法螺のように口に添え、黒煙を吐きながら叫んだ。
「各位、迎撃せよ! 最後の一本でも、躊躇するな!」
虹色殻の蛸は焦りを浮かべる。自身の放った黒煙に包まれる前に見渡して見えた光景では、地面から、砂煙をあげながら、気配もなく予兆もなく飛び出してきているのを見たのだから。
「っ……!」
自身の触手の根元に、強い痛みを感じた。彼らの中でも、最も神経の発達した個体である虹色殻の蛸が、飛んできた命令によって受ける痛みは抜きんでて、大きい。
(ギネン……、やはり貴方なら、やってくれると……)
弾け、飛んでゆく痛みに、虹色殻の蛸は、安堵するように、意識を手放した。




