第三百十七話 烏賊の体と形容した化けの皮とその正体について
「……。ほら。想像できたでしょ? これ以上なく鮮明に。それをね、人は、欲、って呼ぶの。これで貴方たちは本当の意味で、命が為に生きようとするようになったってことでしょうね。これまでのように手段を選んでいた頃にはきっと、戻れないもの」
そう、益々血色が悪くなっていく青紫色の蛸に少女ケイトは今度は、
「で、だからこそ、ね。私、頑張るわ。きっと、できるわ。貴方たちは。私が貴方たちに教えるのは失敗例。同じ轍を踏まないように。その手を血塗ってしまわないように。変わらず子供たちのためと誇って生きていけるように」
優しく、抱擁するように言った。
自分がそのような熱と温かさの籠った言葉や想いを抱いて口にするなんて、もう随分と無かったことだったから。それを自覚までできたなんて、本当にもう、自分らしくなくて、けど、悪くはないと思ったのだった。
こんな感傷に浸ることも。こんな節介を焼くことも。
決して、決して、馬鹿らしいことでも、手慰みでも無いのだ、と。
「そうか。そりゃあ、頼もしい。ってことは、これからもよろし―…」
ガゥグァアアアアアアンンンンン!
突如、地面が揺れた。下から地面ごと蹴り上げられるような、すさまじい揺れ。
周囲の建物が、ガラガラと、崩れたり、地面から抜け落ちる様子と、蛸たちの悲鳴が一帯に響き渡った。
そして、足は地面についておらず、少女ケイトも、青紫色の蛸も、地面から体は浮いていた。
幻は解け、潜んでいた悪意が姿を現す。
町中にある、烏賊たちの遺骸。黒い墨色の煙を噴き出したそれら。そして、
「何だっ! 何だこれは!」
目にしているものを疑いつつも、辺りを見回さずにはいられない青紫色の蛸。
「……」
言葉なく青褪めて震える少女ケイト。
叫びが、響く。
蛸たちの、断末魔。
「ぁあああああ!」
それは理性無き叫びだった。
「助け…―」
それは命乞いごと無慈悲に切り捨てられた。
「このような狼藉、許され…―ががががが……」
威厳の言葉は暖簾に腕押しと事切れた。
「やめてえぇええええええええ!」
「ああああああああああああああああ――」
・
・
・
「こわいよおおおおおおおおおおお、が、がががああああああああああああああああ」
「い"だい"よ"ぉ"ぉ"ぉ"ぉ"…―」
蛸の子供たちの阿鼻叫喚と終わりの声。
目を疑いたくもなる。耳を疑いたくもなる。
目も閉じて。耳も閉じて。塞ぎこんでも、無駄なのだ。それでもそれは現実なのだから。だから、必要なのは悲嘆ではなく、目を背けることではなく、
「未だ、終わってなんていなかった。二重底だったのよ。相手は悪意の達人……。こんな生優しく何とかなる筈なんて、無いんだもの」
(気配……。気配、気配、気配、気配……。いくつ……。いくつ、なの……。何十、いや、何百、何千、まだ、増える、何万、いったい、どれだけ……。っ!)
直視すること。
ぞくり、と尖った気配を足元傍に少女ケイトは感じた。それは、近くの遺骸の黒煙の中から。
青紫色の蛸に何も説明せず、少女ケイトは背を向けて、素早く泳ぎ移動して、
(こんな手でくるなんて……。そう。何でもありなんだから。モンスターフィッシュ素材。何でもあり。改めて思い知ったところだったのに。分かっていた筈だったのに。心を改めた筈だったのに)
念のため、と密かに隠し持っていたそれを、胸元から取り出し、引っ張り、煙へと向け、張ったそれの中心を指先で貫いた。
灼けて遺骸ごと消えた煙と、その煙から溢れ出そうとしていた気配の塊はごっそり消えた。だが、遺骸はそれだけではなくて、他は残っていて、彼らは遺骸の焼却をしていないし、海生の彼らにそういう発想はなく、こんな一回で覚えられるものでもない。
だからこそ、対処はできない。
敵の狙いはこれだったのだ。今更ながらに、トロイの木馬染みた人間の悪意そのものな策に戦慄する。本格的に震えることになるのはここから先だというのに。
既に、心は恐怖に覆われてしまっていた。
蛸たちの議事堂内部。改め、議事堂残骸の上。
「君たちの歴史は浅い。犠牲を伴う戦略という発想が無いということなのかな?」
虹色殻の蛸を包むように捕えて勝ち誇ったように君臨している存在。それは、巨大なクラゲであった。エチゼンクラゲくらいに大きな。
「そんな……莫迦……な……」
衰弱しきって、何とかそう口にして、気を失って、その巨大クラゲの中でぷかぷかと浮かんだ。
「さて、諸君」
そう巨大なクラゲが、どこにあるかも分からない口から声を出して、周囲の身構えていたり、逃げ遅れていたり、恐怖で動けなくなっている蛸たちに語り掛ける。
言われるまでもなく、それこそが首魁である。蛸たちはそう分からせられていた。
「賢こぶるには、君たちには未だ早かった、ということだよ。どれくらい早かったかというと、」
そこは、瓦礫と、色鮮やかな、模様様々な、柔体な遺骸の小山。
今もまた一匹。上から下へと貫く、蛸よりもずっと細く鋭く数多な触手の雨で、逃げ惑う蛸の一匹は居貫かれ、声にならない声をあげた。
「口に出すのも憚られるくらい、どうしようもなく、さ」
頂きに立つ敵の首魁は、そうして、恐慌し、逃げ惑う蛸たちと、上から下へ貫く触手の動きで追い掛け狩る悪趣味に眺めているのだった。




