第三百十四話 想定を遥かに超えて、敵の首魁は海の中灼け落ちた
青紫色の蛸がにゅるりと、一見唯の砂の地面に手をのばし、
ざざっ、と金属が砂と擦れる音、そして、重い金属がずっしりと周囲の砂を舞い上げる音。つられて動く周囲の水の音。
深く暗い、竪穴が見えた。それは、少女ケイトが余裕をもって潜っていけるだけの幅があった。さながら、少し径の大きな井戸、程度の幅だった。
青紫色の蛸の先導に従って潜っていく際も。
(さっきの景色とは全然違うけれども……。あれはそういう誘導? 私を落ち着けて、簡単なことを考えさせて、安定させた? ギネン。貴方は怖い位に賢い)
「耽るのはいいが、見失うなよ」
下から声が、浮かんで聞こえてきた。
「分かってる」
何ともいえないやりにくさを、少女ケイトは感じ始めていた。
「右に曲がるぞ」
「ええ」
壁に突っ込むように右に曲がると、壁なんてなくて、今度は井戸を横向けたような横穴が続いていた。
と、そんな風な縦横無尽を、方向感覚が無くなるほど繰り返し、
「ようこそ我が家へ。おもてなしは後回しだ」
前方から声が流れてくる。蛸が視界から、上へと消えたかと思うと、すっ、と周囲の光景が変わった。
そこは、青紫色の蛸が、触手で地面をすっ、としたときに見えた光景。
開けた場所だった。蛸たちの会議の場所と同じ位広い空間。けれども、様々な機器のような何かがたくさん並んでいる。
特に目を引くのが、上へ向けてのびている、煙突のような何か。そして、その根元の、炉のような何か。
道理で、と少女ケイトは納得した。
縦横無尽に動き周り、せわしなく計器の数字を確認したり、バルブのような取っ手を回したりする青紫色の蛸を見ながら少女ケイトは呟いた。
「貴方、技師、なのね」
だってそれは、ひどく腑に落ちたから。
ひょいっ!
「ギネンさん! おかえりなさい」
小さく半透明な蛸が物陰から飛び出した。
ひょこっ! ひょいっ! ぴっ!
ひとりだけではなかった。次々に、物陰から。小さく半透明な彼らだから、不意に次ぐ不意での出現。
小さな彼ら。しかし、確かに存在する彼ら。
どうして、気づけなかったのか……? 少女ケイトは思う。別に小さな彼らは隠密していた訳ではない。確かに、静かになりを潜めてはいただろう。が、自分に気づけない、だなんてことはあるのだろうか。
「この子たちは?」
今度は、聞こえるようにと、少女ケイトは大きな声で言った。
「俺と同じはぐれ者さ」
そうそっけなく青紫色の蛸は手を止めることもなく、振り返ることもなく言うが、その口調はどこか穏やかだった。
「っと。ぽけっとしている暇は無ぇな。おい、コウキ。あれをやるぞ。手伝え」
きっと、その顔は寸前まで穏やかに緩んでいたのだろうと容易に分かった。
小さな蛸たちのうちの、そのうちの一人の名を呼んで、それが誰かはすぐ分かる。
ぴゅいっと、勢いよく彼らのうちの一人は少女ケイトを横切って通り過ぎていったのだから。まるで目を輝かせるかのように、全身を白く点滅させ、喜びを表現しているのがそのとき見えた。
何が始まるのかと少女ケイトが見ていると、何やら貝殻模様の丸い枠が出された。青紫色の蛸よりも少し大きく、少女ケイトの全長がすっぽり覆い隠せるほどの大きさだった。それには、うっすら黄色っぽい半透明な膜が貼られていた。
半透明な小さな蛸が上側へ。青紫色の蛸が下側を持って抑えて、その丸枠は縦長に、にゅぅぅっ、と伸びた。
引き伸ばされたそれが、色のないガラス並みに透明になったかと思うと、どういう仕組みか、その背後にある機材の壁面を抜けて向こう側の景色が写り、その焦点が、さらに遠く遠くへと進んでいく。そしてーーイカの軍勢のさなかで、それは止まった。
「よぉく、見てくれ。あんたなら、できる筈だ。俺らにはできない。けど、あんたなら。これが肝だ。見極めろよ。一番偉そうか、一番強そうな。そんな奴を。指差してくれ」
数多の烏賊。ふわん、ふわん、と、クラゲのそれのように、それらはどうやら休憩中のようだった。敵であるそれらは軍団だ。そして、それは、軍団のうちの塊の一つに過ぎないことは明らかだった。
「見えてる範囲には、いないわ。ずらしていって」
すぅ、と、少女ケイトは手をかざし、右へと、指を傾けた。
それに合わせて、引っ張り役の、上側担当な小さな半透明な蛸が、けなげに少女ケイトから見て右側に力いっぱい泳いて、引っ張って、映る風景がすっかり切り替わったところで止まる。
「っ! あれ!」
思わず指差した。そんな簡単に見つかる訳ないと思っていたのに、他の、泳いで伝令やらしているらしい烏賊たちの、集合点となって、動かない中心を、確かに見つけたから。
「よし。じゃあ、そいつが中央に映るように、指示してくれ」
「コウキくん。ちょっとだけ下へ」
「もうちょっとだけ」
「ちょっと行き過ぎ」
「で。ちょっと右」
「ギネン、やっぱりもうちょっと下へ引っ張って」
「いいわ。丁度真ん中」
と、初めての連携とは思えないくらい、あっけなく、少女ケイトから彼らへのまともな指示出しは終わり、引き延ばされていたそれは少々横長の楕円になっていた。
「よぉく見といてくれ。これが、俺らの持つ最強の対抗策の一つだ」
にゅるっ、と少女ケイト側に、青紫色の蛸の触手がのびてきて、楕円の中心を貫いて、引き抜いたかと思うと、風船が弾けるような音と共に、膜は赤鉄色に焼け消えた。
「ぅぅっ!」
きぃぃんん、という強い耳鳴りで顔をしかめる少女ケイトをよそに、また、先ほどの丸い枠が何処かから新たに引っ張り出されて、青紫色の蛸と半透明な小さな蛸が、先ほどと同じように、烏賊の軍勢の光景を映し、少女ケイトの指示を再現するかのように、同じ場所を移した。
「どう……だ? 多分、あんまり変わらないと思うが、何か変化してるか……?」
そう少女ケイトに尋ねてくる。
「っ! ……」
少女ケイトは呆然としていた。
灼かれて、足から上の殆どが消えて、残骸となった、ひとつの烏賊。丁度、周りがそれを引き千切って、食している様子。
そして、それが終わるまでほんの数十秒程度だった。
「……」
少女ケイトは、口にする言葉が浮かばなかった。どちらに、対しても。
「どう、なんだ……?」
それでも催促される。
青紫色の蛸が手を放し、光景の展開は不意に終わる。そして、
「どうした、ケイト? そんな顔をして。怖いものでもみたみてぇに」
ぞっとしていたところに、そんな風に、至近距離顔の傍に迫られていた。
けれども、脅かすでもなく、青紫色の蛸が見える反応は、まるで何てことないようなものを見せただけなのに、どうしてそんなかおをしているのか、とでも、首を傾げているかのくらいの、軽気な疑問といったかのようで。
敢えてそうやってくれているということも分かりつつも、こんな些細なことが、といった空気は本物で。少女ケイトは、何を返せばいいか分からなかった。
「でもな、見てみろ」
今度は、小さな半透明な蛸たちによって、引っ張られて展開された、先ほどと同じ海域の光景。
もう既に、元のように命令系統が戻ったように、中央で佇んでいる敵の一匹と、情報伝達のためにそこを起点に行きかう他数匹。それらは、あの残骸を喰らっていた者たちと一致していることを、見掛けと気配から少女ケイトは把握していた。
「こんなじゃあ終わらないからこそ、奴らも、俺らも、終わらないかこそ、俺は蛸をやめないといけなくなった」
そんな把握も分かったかのように、青紫色の蛸が言う。それは戦略家のそれであった。脅威を感じるほどに。それじゃあどうして、自身の助けが彼らに必要なのか、と、不安に思ってしまうくらいに。




