第三百七話 海色のヴェール
虹色殻の蛸に先導されて、少女ケイトは街を歩いていた。
というのも、そこの浮力は、通常よりも小さいらしい。
だから、歩いているという感じはしなかった。しかし、泳いでいるという風でもなく、身体が不自然に軽くなったかのよう。加えて、のろくしか動かない身体。まるでスローモーションのような動き。
蛸たちはそうではない。確かに、彼らは泳いではいない。まるで人のように歩いている。そう。彼らはスローモーションのようではない。足音は鳴らないが、タスタトコトコ歩いているといった風に見える。人が地面に歩くのとどこか似せているかのよう。
模倣。
人の、模倣。
彼らの生活様式が現状そうなっていることは、彼らの起源が故で。だからこそ、その光景は、少女ケイトの奥に鈍痛を与える。
「素敵ね」
ぼそり。少女ケイトは、きっと憂いを浮かべた顔でそう言った。
「光栄です」
虹色殻の蛸はそれを誇らしげに受け入れる。胸を張る彼の真っすぐさが、余計に少女ケイトの胸を苦しくした。
息苦しさなんて無いかのように調節された、水に溶けた空気を、苦しくもなく自然と肺から吸えるこの場所で、息苦しさを確かに感じたから。
(表情……。彼らには表情が無い。だから、なの、ね……)
彼らの真っすぐな理由を考え、それが余計に苦しさに繋がる。
気を逸らすように、目線を遠くに。すっと、右から左へ見渡した。
丸石は石垣のように。珊瑚は塀や柵や壁面のように。敷き詰められて、繰り返されて、彼らの背丈に合わせて延々と遠くまで。
蒼い空に、白い霜降り。それが、彼らにとっての晴れで日常。きっとそうだ。
「よく、晴れているでしょう? 蒼が光り輝いてとても綺麗ですから」
「そう、ね。ずっとだって見ていられそうなくらい、素敵な景色。晴れの景色。平和の景色。貴方たちにとっての平穏」
少女ケイトは思索に耽る。感傷に浸る詩人のように。まるでどこか他人事のように、遠く引いて、見ている。その景色を共有する資格は本来、自身には無いと知るが故に。
「貴方様方のお蔭です。私たちはこういった考えを、貴方様方から贈られたのですから」
「……」
返す言葉は出なかった。目を背けて、俯いて、歩き出した。酷く足を重く感じた。
虹色殻の蛸も、少女ケイトと同じように、泳ぐでもなく歩いている。しかし、蛸のそれは、少女ケイトのそれよりもずっと速い。
だから、頻繁に立ち止まって、少女ケイトを待って、を繰り返している。虹色殻の蛸はもう、話を振らないようにしていた。表情は読み取れなくとも、足取りの重さや鈍りは読み取れるから。
気を遣われている。気を、遣わせてしまっている。そう強く実感しつつも、それを横に追いやっているのは、そうする他ないからだ。少女ケイトには、もう余裕が無かった。
彼らとの本題に入る前にこれだ。彼らからの出題の前だというのにこのざまだ。できないことをやろうとしている。無理なことを、できると言おうとしている。まるでそんな心地。そんな結末になりそうだという予感がひしひしとしてきていた。
表情は分からずとも、仕草や所作から感情は読み取れる。理解もできる。そんな虹色殻の蛸もそれを感じ取っている。自分たちが彼女をここに連れてきたことだけでももう、無理強いなのだと、蛸は理解していた。だから何も言わない。不満を浮かべることすらない。ただただ、少女ケイトに深い感謝と申し訳なさをひたすら抱いている。
そのくせ、彼女をそっと返すという選択は頭の隅にすら微塵も無いという。
余裕が無いのは、実のところ、蛸たち側も同じである。
やけに角が多い道。蛸にとっては。だが、彼らと比べると数倍から十数倍は大きな少女ケイトには、唯の障害物でしかない。角の先に広がっている道も見える。建物の背は、自身よりも殆どが小さい。先ほど自身がいた、巨大な棘々《とげとげ》の巻貝で、せいぜい高さ10メートル程度。それ以外のものは、蛸たちのスケールに合わせるが如く、悉く小さい。高さ1メートルもあれば、周囲では際立って大きくらい。
だが――この街は、数百メートルどころか、モンスターフィッシャーたる少女ケイトの海中というこの場での視射限度である数キロではゆうに収まらないくらいに巨大だった。
(街というより、一つの国。けど、見えてる通り、じゃあない)
気配の数。それがこの構築された領域に見合わない。
仕組みは分からない。自身の知らない知識、手法であることだけは間違いないが、と、箸休めでもするかのように、心を落ち着けて、足を止め、ただ、感じていた。
何度か曲がりながら、徐々に、地面の高さが高い方へ。小さな小さな段差を登って。
光景が変化していた。いつも間にか、自身と虹色殻の蛸だけになっている。通りに蛸たちはいない。気配も消えている。
そういえば――街の景色も、入って直ぐの、貝殻による建造物が多めの景色が遠くまで広がっていたのが、いつの間にか、小石や珊瑚をこじんまりと成形して、整えて構築していった街並みに。そして今は、段々となった石垣を登っていっている。横にも長い上、上にもどれくらい続いているか分からない。
それもきっと、目に見えている通りではない。
彼らが、この場所に街を築き、こうやって群れて生きていられる理由がよく分かった。
もう、百段越えている。だから進んだ距離もそれなり。前を見ても、階段は途切れている。せいぜい、十段先くらいしか見えない。後ろを見ても、十段下くらいしか見えない。
気づけば少しばかり薄暗くなっており、視程はひどく狭まっている。
「あまり余所見をしないでください。最初からやり直しになりますよ」
数段上前方から、虹色殻の蛸がそう声をかけてきたため、少女ケイトは素直に前を向いて、虹色貝殻の蛸を視界に収めた。




