第二百九十八話 砂と油の域
そこは、嘗て、中東と言われた地域。
地形などは、原型を留めて残ってはいない。そこは、原油が噴き出し、巨大な湖を形成し、気温により時折燃え上がる、危険な領域。
人はいない。外縁部から数キロ離れて、いくつか、小さな村はあるが。モンスターフィッシュすら生息できず、本当に、何もいない。
冒険好きでばかな子供か、アウトローを気取る愚かな大人がその淵に出没するだけの、そんな場所だ。
直径十キロを超える、巨大湖のような領域である。つまり、その淵から、向こう岸は、見えない。それ位広大である。ところどころに、クレーンのような構造物を主として、鉄塔から成るような構造物が連なっている。さらりと砂の地面の上に立っているものから、倒壊し、沈んでいるもの、油の中から聳え立つものまで様々である。
そしてそれらは、一様に、不動である。長い間動かされていない。数年ではきかないほどに。油と砂の混合物に大部分は覆われており、輪郭が辛うじて分かる程度。細部の構造は既に見掛けからは分かりはしない。
そもそも、使い方の分かる者すら、この世界の何処に残っているのか。一部の例外的な場所を除き、機械の類というのは、使い手不在のものとなっている。この場所のそれらも同様である。
この場所周囲の小さな村々は、安全と資源の天秤で、この辺りにいることを決めた者たちを祖先とする集合であり、遺された機会を利用する知識を持った者はいなかった。それに、機械の、部品としての需要も、他周囲には無く、その湖特有の危険もあって近づくのは、前述した通り、愚者に限られていた。
油の巨大湖の淵。そのうちの尖塔の一つ。数人分の影があった。それらには、ちゃんと実体があった。白布を幾重にも纏った、喩えるならば、ミイラのそれのような出で立ちの者たちである。首から上は露出している。くしゅっとミディアムな長さの黒い髪に、濃く黒い肌。濃い顔立ちをした、少年少女。しかし、あまり品よくは見えない。そんな高所で、自分たちの身を護る命綱も付けずに、彼らはそんなところではしゃいでいる。
彼らのところどころに、黒くどろりとした、油の跡がついていた。尖塔を登り移動する際についたのだろう。そしてそれが、ほぼ全身についていたことからして、彼らが、結構な長い時間、そうしていたということだ。砂漠の昼の炎天下に。
そんな尖塔頂付近から、油の湖に向かって伸びる枝。そこで、くるり、くるり、と自身の存在をアピールする彼らのうちの一人。
どうやら、彼らがこうしていることは、度胸試し的な、蛮勇の誇示という意味合いを含んでいるらしい。
枝の先のその彼は、幹にいる仲間たちに向けて、にぃぃ、と白い歯を見せて、笑ってみせる。
が、
ツルッ!
足が取られる音がして――
落下、先ほどまで足をつけていた枝を掴もうとしたら、砂と油でコーティングされたそれだ。当然、自重を支え切れるほどしっかり掴むことなど叶わず、表面についた砂と油を毟り取るに終わる。
そして、驚いた表情をして、自身のその油汚れにまみれた掌を見ながら、仰向けにただ、彼は落ちてゆき、ちゃぽん、という音と共に沈んだかと思うと、それに、不定期かつ常時ここで起こる発火と炎上が、落下時点を激しく包んだ。
呆然とそれを見ていることしかできなかった、彼以外の他の彼ら。声をあげることも、動くこともできず、ただ、起こった現実に頭が追いつかなかった。
油の巨大湖。そこから最も離れた尖塔。金属板の足場があり、屋根があり、周囲と比べて、最も手の掛けられていて整備されていたそれの頂に存在している人影は、双眼鏡を持って、眺めていた。
「浮いてすら来ない。未だ幸せな方か。焼かれ死んだ訳ではないのだからな」
ず太い声で、そう呟く。独り言にしては大きな声。当然だ。その男にはもう、長いこと、話す相手などいないのだから。
その男は彼らとは違い、黒い布を纏っている。明らかに彼らより大柄で、そして、布を巻いているという感じではなく、一枚の大きな布で、自身を覆っている、という風だった。そして、彼らとは違い、顔も隠れている。顔の部分はフードでも深く被っているかのようになっていて、露出というか、見えているのは、口元だけ。
もじゃもじゃと、無造作に垂れた、長い口髭が露出している。肌は、彼らと同じように黒い。
「どうして、内にしか目を向けない……。見るべきは、外、ではないのか……? それは……私も……か……」
そう、男は、油の湖とは真反対側を見た。
肉眼での目視ではない。双眼鏡を付けたまま。だからこそ、それは見える。それを以って見ない限り、その光景は見えない。知らないのならば、意識なんていきようがない。
だから、男の言うことは意味をなさない。この場所で男以外のものを指す場合には。だからそれは、やはり、独り言でしかない。自分で自分に話しかけているだけ。
その機器越しに、男の瞳に映っていた。
砂丘の蜃気楼で歪む地平の果て。空の色を吸い、濃縮したかのような、青い、青い、海。何処までも広がっていそうな。
そう。こんな、大量の油と砂と、それらと比べると本当に微かな血肉と水以外には何もない、ただ、じり貧からの滅びしか待ち受けていないであろうこんな閉塞の地から、一刻も早く、脱出しなくてはならないのだ。
「……、ん……?」
男は、見慣れないものを見た。海に映る、影を見た。それは、複数の、連なるような、影。動いているように見える。この場所へと向かってきているような。
この場所からでは、この双眼鏡からでは、これ以上、分からない。
男は、海という存在と。そこからやって来る存在について、祖先の記録から知っていた。それは、海賊と呼ばれる一団についての記録。武装し、海にて、今では無尽蔵な油を強奪したとされる集団についての記録。
つまり――海に出てからの足を、今なら、手にできるかも知れない。海の向こうへ、行けるかもしれない。
男は、決意した。数十年の間、機は未だだと先延ばしにしてきた決意を。
双眼鏡を仕舞い、ずっと準備を重ねて揃えてきた物々を背負い、砂の上に降り立ち、歩き出した。男が黒を纏っているのは、夜を考えて。
それは、砂漠を日を跨いで、長距離移動するという、ここに安住する場合は一切必要のない装備であった。




