第二百九十六話 不死の種類 前編
ザバァンンン!
しけの中、少女ケイトは泳ぎ切った。常人よりは力強い泳ぎではあったが、それは魚どころか、海獣未満な速度だった。だというのに、何故か波や流れに呑まれないその、落ち着いてはいたが止まることのなかった泳ぎで、少女ケイトは、灰色の巨大魚の体と海水面の接触部へと到達して見せた。
流石に息は上がっている。
ついてきている者はいない。そもそも、ついて来れはしない。現在不在の島・海人がそこにいて、樹上の彼らを鼓舞したとしても、できないものはできない。物理的に無理なのだ。人外の域へは、ただ、鍛えるだけでは到達できはしない。そこへ到達できるだけの素質が、必要になってくるから。精鋭は作り上げられても、一騎当千な特別な一人はそうではないように。
樹上側の彼らは、そんな少女ケイトの様子を、不安そうに見ている。それでも食らいついてでも止めなかったのは、彼女が不可能を打開できる一握りの存在であることを認めているが故。
彼女が敵わなければ、彼女が無理と判断したならば、もうそれは、誰であろうと不可能なのだ。彼女より優れた島・海人ですら、そう、変わらない。
滑る魚体に、手足をねじり込ませながら、彼女は登る。濡れた自身の重みに落ちないようにしっかりと。それでいて、その魚体に深く痛みをできる限り打ち込まないように。
登っていて、目が、あった。
ぎょろりと、黒い虚ろな目。
彼女は違和感を抱いた。そして、それに向けて、口にしようとして、止めた。
(クー、貴方……)
目を合わせるのを止め、止まってしまった手足を再び動かし始める。事のあらましと、向こうの要求の凡そを、彼女は想像できてしまった。
「話が早くて助かる。我々には時間が無い」
そう、その、虹色半透明の薄い、黄金比の螺旋の貝殻に入った、その灰色の蛸は、言う。
少女ケイトの掌大の大きさしかない、そんな蛸が、喋る。
モンスターフィッシュ【法螺蛸】。人の如く意思を以って言葉を発する、大人の人間と同等、時に越える知能を持ちながら、短命という欠点を負う、デザインフィッシュ。
取り付けられた声帯は、肺が無い彼らにとって、辛うじての音しか出せないものであったが、自らが生成する薄い殻を法螺として、音を増幅することで、声として届けることを可能にしている。
少女ケイトは彼らを知っている。遥か昔、研究所から救った一握り。研究所の砂浜から、彼らの祖先となったであろう者たちを、海へと逃してやった時のことを。
彼らは、生かされているだけであり、自由は無かった。知能を持つのだから、そんな束縛を概念として理解してしまって、精神の病みというものを大半が発症していた彼ら。
なら、救わねば、と、命を救うという綺麗事をまともに行っていた頃の自身が行った、唯の自己満足なそれを、彼らは子々孫々、口伝として受け継いできたということらしい、と少女ケイトは懐かしさと共に、当時の自身を愚かと後悔しながら、彼らを見た。
彼らに渇望させてしまった。生を。寿命を。それは、自分がせいで彼らに背負わせてしまった苦しみ。半端な希望を与えてしまったが故の。
だからこそ、愚かだったのだと、今の彼女は、分かるようになっていた。
「我々の望むものは、寿命。ただそれだけです。せめて、十年、いや、二十年。足掛かりくらいなければ、我々は積み重ねていくことがもう、できない。自分が死ぬのが怖い訳ではありません。寧ろ自分たちはここで終わっていい、そう思っています。ですが、子孫にまで、この絶望を、与えたく、無いのです」
蛸たちの代表者の言葉は重かった。彼らの出っ張った目玉が、黒い横線のような光彩が、一葉に、同じ類の想いを示していた。
少女ケイトは思う。
昔のつけ。その一つがまた、回ってきたのだ、と。そしてそれは、自分が責任を持たなければならないのだ、と。
現在よりも過去。責任を取るべき事柄の優先順位は、彼女の中では、いつも、そう。
「貴方様は、我々の声を聞き届けてくれるのですね。ありがとう、ございます。この恩、どう返せばいいのか……」
蛸の代表者たる、虹色法螺の蛸は言う。
「……。急ぎましょう。こうやって話をしていられるのも、何時までもとはいかない、きっと」
「まず、貴方様と我々の認識を合わせておきたいのです。不死、の種類について」
その言葉に、少女ケイトは覚悟した。船長に留守を預かる意味で任された遥か後方の彼らという責を、放棄する覚悟を。
 




