第二百九十五話 蛸の軍勢との対峙
かなりの昔から言われていることだ。海生生物のうちの一部は、人並みの知性を知能を保持している、と。例えば、イルカ。例えば、蛸。
今回は、そのうち、蛸が大きく関わる話だ。
とある、夏の大しけの日。
海がおおいに荒れている。暴風や高波が、海から、海上へとのびている木々の群れをしならせる。連日の暑さに差し込んだ、激しい気候の差。それは、樹上側の軍勢の勢いを弱らせる。
軍勢。
つまり、武装した、集団。珊瑚を削った穂先が取り付けられた、銛を持ち、緑葉でできた腰覆い、女性は加えて胸覆いを付けた集団。
軍勢。つまり、彼らは、対峙している。それは、戦の始まる寸前。
つまり、相手がいる。そしてそれは――人では、無い。
数キロ離れて、巨大な鯨のように見えるが、鯱のような素早さを持つ何か。それだけ離れているのに視認ができる程巨大ということ。そして、イルカのような鳴き声をそれは放っているのだから、恐らくは仲間がいる。
返される音は、法螺貝のような風で、その音は一種類ではない。それも、数十ではきかず、数百種類に及ぶ。
そう、樹上側の、原始人染みた装備の者たちは把握し、緊迫した空気で連帯していた。パニックになんて溺れられない。
相手は見るからに知能を持っている。それも、単独ではなく、連携した群れ。遥か遠方の一体を除いて、姿を見せない。
音の数からして、姿を見せない残りがどこにいるのか分からないというこの状況は非常に不味いと、彼らは理解している。
そして、今は丁度、彼らにとっての本来の首魁は留守。だから、今のその場のトップは、副首魁である。
しかし、そんな少女に頼っていいのか? と彼らの誰もが思っている。
最初遭ったときはそうではなかった。それは、妙齢の女性であった。だが、彼女は、時を遡るかのように若返っていった。ほんの数年で、少女となっており、そして、そこで、固定された。
喋ってみると、一見最初と変わらずでいるようで、結構違う。
見掛けに引っ張られるように、精神的に幼くなっており、子供らしい悪戯を周囲に仕掛けたり、意味もなく嘘をついたり、じぃぃと相手を見て観察したりなど、脈拍なく、落ち着きというか安定感が失われていた。
それでいて、以前から持っている医療知識はそのままで、見識や見解は以前と変わらず頼りがいがある。医療知識に関しては、首魁以上にしっかりしており、お蔭で、死や再起不能に陥る者は大幅に減った。子供ですら、容易に終わってしまわない環境ができ上っていた。
だからこそ、外からきたその二人が来る以前であったならば感じなかったであろう恐怖を、彼らは感じていた。
死ぬかもしれない、という恐怖を。
幼げな顔つきで、眠たそうな表情で、感情に乏しそうな感じで、黒髪猫毛のフェアリーショートで、浅黒いを通り越して黒く日焼けした少女と、海から生えた木々の樹幹という足場の周囲を交互に入れ替わりに見る、少女よりは真っ黒ではなく浅黒い彼ら。
他の者とは違って、ぶかぶかではあるが袖と裾を体長に合わせて破った衣服を纏う少女は言った。
「恐れなくていい。敵は、真向から向かってくる。狙いが捕食なら、あんなことせずに、不意打ちすれば事足りる。持久戦するにしても一緒。っ――来る」
少女が、そう、ぴくん、としたところで、彼らは身構える。
大波と共に、迫ってくる巨大な何か!
ザバァアアアアアアアンンンンンンン!
巨大な波と、衝突音。その裏で響く、海上へと生えた木々が激しく軋る音。誰一人振り下ろされることなく、樹上側は耐えていた。
少女は涼しい顔をして。他の彼らは、必死に何とか。
「海の賢人さん。そちらの要求は?」
少女はそう切り出した。
巨大な何か、改め、巨大な魚。その、黒く丸い目が、ぎょろりと、少女と彼らを捉えている。びくつく彼らと、怯えすらしない少女。
少女が言葉を投げかけたのは、その巨大な魚に、ではない。その巨大な魚の背にあった、小さくも、確かに存在している数多の気配のうちの、最も強く主張していた唯一つ。
樹上側では、少女だけが、その、数百メートル先の巨大な魚の背の上の数多をその目で視認できている。
「その呼び名を知っているということは――君が、ケイト・スピナーか」
海上側。オウム貝のような黄金比率の螺旋。虹色に輝くそんな貝を纏う、蛸が、そこには、居た。




