第二百九十四話 国主処分
「島野・ロッド、何か遺す言葉はあるか?」
執務机と絨毯が置かれた部屋。調度品などは無骨ながらも、繊細な装飾がされており、棚等に物は少ない。そこを使用しており、今、執務椅子に座ったまま、首筋に注射器をあてられている壮年の男。そして、そんな壮年の男の首筋に注射器をあてている、輪郭が、黒い靄のようにぼやけた、処刑人。
ぐるぐるもじゃもじゃと長く、左右に分けられた色艶の良い筈の髪は、命の終わりを告げられた時になっても、変わらず凛々《りり》しかった。
少し痩せこけているが、筋肉質で、目の下には強い隈のある、その目に、絶望も諦念も浮かんではいなかった。
「何を、だね?」
そう、とぼけて見せる位に。低く、ドスがかっていても、それは穏やかな声だった。
島野・ロッドは知っている。その注射器の中身が自身に齎す死にざまとその僅かな時間の間に、無限に至るかのような体感時間で痛みに溶けることを。
だが、もう覚悟は済んでいる。だからこそ、揺らがない。自身の選択は間違っていないと、確として信じているから。
「島野・ロッド。御前は、君主としての最上の役割の一つ、後継の育成に失敗した。だが、この、日本国特別区東京フロートの運営に於いて、功績が在る。だからこそせめて、失敗作ではあるが娘とまだ御前が見ている、かの少女に言を届ける権利位はあると、御上からの報酬である。我々は賞罰を司る。為した事に応じて、賞も罰も、等しく与える」
その声は、加工されたかのように、ぼやけている。雑音が声に混ざったかのように聞こえるそれは、声の主の特定を妨げる役割を持つ。そして、性別や年齢といった情報すら、相手に与えない。それは、その処刑人が属する職と役割故だ。一定以上の地位の特定の役割の者に対して、御上から遣わされるのが、彼ら。
「手間を掛けさせるね。娘への伝言か。あやつに水際で届ける言葉、か。ふむ。無い。何も思い浮かばない。君のお蔭で、あやつが何処かで生きて居ることが確定した。もしかしたら、五体満足では無いかもしれない。もしかしたら、囚われの身かも知れない。もしかしたら、あの古典のような純粋な少年と無事添い遂げているかも知れない。考えるときりがない。だが、その何れだとしても、やはり私は、あやつに遺す言葉は無いよ。私はあやつに言ってやれなかったのだから。『何処の誰かも知らないお嬢様。だからこそ、どうぞ御随意に。』と。もしそう言ってやれていたらこうは拗れなかった。……。止めにしよう。もしも、だなんて無意味なのだから」
東京フロート区という、実質的な一国の、実質的な国主と言えるその男は、そのように回想する。普段であれば口にすることは決してないであろう、偽り無き内心。しかし、これは、自身にとっての最後の刻であり、そして、このような処刑人を差し向けてきてくれているということは、御上は、そういうせめてもの情けを与えてくれたということなのだから。
もしそうでなかったとしたら? 決まっている。公衆の面前での、尤もらしい罪状と共にの、自身だけでなく、周囲含めて一斉を一掃する形の、処刑である。
「ん? 君が泣いてどうする? 公僕なのだろう? ならば、感情はせめて、脇に退けておかねば。何? あぁ、君はもしかしたら、我が領民か。御上も酷なことをさせる。生まれ育った国で、最初の仕事をさせるとは。ん? どうして分かるか、と? 分かるとも。知っているのだから。君よりもずっと、御上というものを知っているのだから」
涙が見えた訳ではない。息遣いの変化という、微かながら漏れる情報を、島野・ロッドは読み取ったのだ。そして、暗に言うのだ。『この一件に関して君が負うべきものは何もない』と。自身を終わらせる者を、そうやって気遣う。
島野・ロッドとはそういう人物であり、だからこそ、後継者の育成に失敗したともある意味言える。きっと本人も気づいているが、それでも構わないと思っているだろうことが、彼の偽りない回想の言葉から滲み出ている。
「後は、今から空にするこの容器を持ち帰り、報告を上げ、君の役目は一段落となる。
いつの間にか、自身の首筋に添えられていた注射器を自らの手に収めていた島野・ロッドがそう言い、はっとそれに処刑人が気づいた時にはもう手遅れ。止めようとするにももう遅い。自身の首筋に既にそれを添え直していた島野・ロッドに必要な動作は、その先端を差し込み、注入するという連続して行えるに動作だけ。
処刑人が跳びかかる動作に入るよりも前に、けりはついてしまった。
島野・ロッドは、一切の躊躇なく、首筋の動脈へとその先端を突き刺し、その見えない中身を注入した。そうして、空にして、投げた注射器。それを処刑人が反射的にキャッチするのを確認すると、
「無意味な断末魔に付き合う必要などない! 行け!」
早口で怒鳴るように言い放ち、椅子から立ち上がった。用意しておいた、特製手製の『蜘蛛糸水槽』。島野・ロッドは、それを、仕入れた『蜘蛛糸水槽』を更に加工して、一般どころか、モンスターフィッシャー関係にも秘匿されている知識を一部利用して、自身で作った。
通常のものとの違いは四つ。
一つ目は、その大きさ。大柄である島野・ロッドを含め覆って、余りある容積。
二つ目は、その色合い。通常の透明なものではなく、黒く中の様子は伺えない。
三つ目は、その厚さ。二重構造とし、膜と膜の間に海水を密閉する形で充填されていることにより、海水との接触を失うと強度を失う欠点を解消している。
内に入り、水槽の口を括り、間に合ったと安堵した島・ロッドは、痛みに意識が飛びそうになり、絶叫しそうになるが、必死にこらえた。それが自身の最後の仕事なのだと理解しているから。覚悟しているから。
そんなものを用意していたのだ。死にざままで想定し、受け入れて、覚悟していて、それは揺らぐことがなかった。
それは見事なものだった。外から見たら、水の溜まっていくゴミ袋のようなもの。中に人が入って、のたうちまわっている地獄が展開されているなんて、誰も思いはしない。
中で何かが溶けて、徐々に袋がどっぷりしていくかのようにしか見えない。それは、自身の周りや一般の誰もを巻き込まず、気づかせず、消えたように終わりにするが為の、自身の棺桶。
終わりのきっと、数秒前。島・ロッドはもう、感覚がなくなった、意識だけでただ、回想する。
覚悟は済んでいて、自身は施政者で。だからこそ、終わりまで綺麗にしなければならないものだ。後の者の手を煩わせるにしても、最低限に。
そうして――溶けながら、絶対に感じるような果て無く長い時間の終わりの水際、ただ、島・ロッドはただ、願う。娘の先が、途切れないように、と。
これが、娘に残したかった自分の言葉なのだと気づき、穏やかな気持ちで、後悔した。何故なら、島・ロッドは、娘の強さを信じているから。決して、自分のようにはならないだろうと、もう笑えるようになったから。
微かに揺れ動いていた、閉じた水槽は、動かなくなる。
表面には、白い塗料で文字が描かれていた。
『このごみは、そのまま海に流して置いて欲しい。少々重いが中身は唯の海水だ ―島野・ロッド―』
いつものように、ごみ出しの文言を記載した、黒塗りのゴミ袋に偽装して。
ばれることはない。確かめる術は、一般にはない。
人体の構成元素は海水に酷似している。それすらもはや、この時代では秘匿知識。だから、その嘘が後を濁すことだけは、決して無い。




