第二百八九十話 姿無し、もぬけの殻
言葉無くとも、返答はあった。幻は消え、たった一つの順路として、遥か前方壁面にたった一つ、何処かへ続く通路が見えた。
それを進んだ先には――想像のどれとも違った結果が、ただ、在った。
だから少年は、また、困惑することになる。
通路を抜けた先。
影も姿も形も気配もそこには無かったのに、突如、それらが実態を伴って現れたかのように知覚できた。
それは、幻がとけたと考えると理解できる事柄だろう。幻というのは何も、偽りを見せるだけではない。無いものを見せるようにするだけでなく、有るものを無いように見せることもできる。ただそれだけのこと。
それにそんな理屈、知覚できたものがものであったが故に、少年はもうどうでもよくなっていた。そんなことよりも、今、目の前にいるお姉ちゃんだ! と。
ごちゃごちゃと思考する自意識はどこかへ飛んでいった。
帰りのためのカプセルを結び付けて引きづってきていた釣り竿を豪快な男に押し付けて、駆け出す。
「お姉ちゃんっ!」
俯き気味になって、何か、見えないものを確かに眺めているような目の動かなさで、膝を抱えて座り込んでいたリールに向かって、少年は声をあげて、飛びついていった。
当然、リールはそれに反応せず、少年が触れて、重さが掛かって、やっとこさ、反応し、リール自身にとって唐突なその光景に、不意の現実に、ただ、気をとられ、そのまま押し倒されるように倒れた。
自身の胸に埋もれる形で倒れた少年が、すぐさまそこから顔を上げて、更に乗り上げるように、自身の顔の前へ、まるで飼い主に喜んで飛びつく子犬のように無邪気に笑顔を浮かべて、笑って笑って、笑う。本当に嬉しそうに笑うのだ。
突然に思えたそれに気をとられるなんてのはすぐさま脇へと流れていって、リールはそんな少年に感化されるように、何か、きっと似たような気持ちになったのだろう。
「ポンちゃん!」
そう言って、自身の胸に押し付けて、埋めるようにぐりぐり抱きかかえ、その感触と熱と匂いに、安心と嬉しさを強く強く感じ、さっきまで見せられていた光景のことは偽りだと判断を済ませてすっかりと投げ捨てていた。
(ポンちゃんがあんなこと言う訳ないもの)
何だか二人しかその場にいないような空気が漂っていたが、無論そんなことはない。
「お~い。そろそろいいかぁ?」
何だか生優しい声が聞こえてきた。
リールはびくん、と反応し、みるみる顔が赤くなる。そして、少年を抱き寄せる手が緩み、少年はしゅるりと自身の首をすっぽ抜いて、くるりっ、あっけなくリールから降りて、平時の様子で表情で、
「何が?」
と、首を傾げながら、子供らしく思った通りに口にするのだから、豪快な男は、ちょっと苦笑いした。少年の近くにいる、まだ寝ころがったまま、手を顔にやって、真っ赤になったままのリールと少年を対比しながら。
「うぅん……。いつ、かは分からないけど、気づいたら居なくなっていたわ。最初はいたのよ。すっごく近くに。多分、ちょっとずつ、ちょっとずつ、離れていったんだと思う」
「分かってはいたが、相当用心深い奴だな」
「私のこの手と足のことも、気づいていたし、知っていたみたいだった。ほら、これ。義肢なのよこれ。ちょっと特殊な、ね」
「ほぅ。てぇことは、あぁ……、そういうことか……。こりゃ、骨が折れるぜ。今回のこれだけじゃあ、終わってはくれねぇだろうなぁ」
「でしょうねぇ……」
「……(全然、分からへん……。ついて……けへんわ……)」
平常にリールが戻ったところで、三人で座り込んで話を始めて、二人で話を進めるリールと豪快な男。そして、置いてけぼりな少年。
それは、人対人での駆け引きというものをどれだけ知っているかによって生まれた差異である。
(何やっていうんや……。姿見せへん。誘ってきた、乗ってきたと思ったら、おらへん。置き手紙も無い。お姉ちゃんも特に何もなく無事。一体、何やっていうんや……)
「どうする? もう少し自分で考えてみるか?」
「わっ! びっくりするやろ!」
豪快な男が、突然自分にそう言ってきて、びっくりした少年。豪快な男はほほえましいものを見るような優しい表情で微笑んでいた。
もう、少年も豪快な男も、心に掛かっていた重い負担は取れたのだから。リールは無事。被害はない。幻影は解かれ、帰りにも問題はない。
だからこそ出た、のんびりとした遣り取りである。
「で、どうするよ?」
「どうするったって。多分考えて分かるもんちゃうんやろ? だって、こんなん、ありえんやん。ありえへんことにありえへんことが掛かっとる。見とう誰かに話を持ちかけるなんて思いつかへんかったし、いざ来てみたらお姉ちゃん何もされてへんかって他だれもおらへんなんて……、なあ」
と、少年はリールの方を向いた。
「ふふ。いいのよ」
リールは少年のその変な遠慮と、無邪気な心配の混ざったみたいな何かを、心底微笑ましいと思いながら、微笑んで受け入れた。
そして、豪快な男の方を少年は向いて、ごくり。生唾を飲み込んで、そして、言わずとも分かるくらいの好奇心を顔に浮かべて、口を開こうとして…―
「上に戻るとしよう。長い話になるし、二度手間になるのは面倒だからな」
がはは、と豪快な男は笑いながら立ち上がり、手にしていた釣り竿を少年に返し、促すのだった。




