第二百八十八話 子供騙しな熱冷まし
長い沈黙だったからなのか。豪快な男の額から頬へ。汗が伝っていき、ぽとり、と砂に落ちた。遮られることなく。
「もうこの辺でええやろ」
少年は、冷めた目をしている。無駄な労力を払ったと言わんばかりに。苛立ちも募っていたらしく、その声は少しばかり荒れていて投げやりだった。苛立ちに関しては、豪快な男によるものではない。
こんな掌で踊らされるような真似に立て続けに遭遇していること。相手は違うだろうが、嗜好や趣旨はそう違いなく、一緒であるだろうとこうやって後になって分かってしまったからこそ。
少年の視野は、年不相応に広袤であり、それと同時に、年相応に狭窄でもあった。
「違うんだよ……。そうじゃあ、無ぇ。そういうことじゃあ、無ぇんだよ……。肝は、そこじゃ、無え」
そして、豪快な男の声色から、角が取れる。
「お前さんは、前来たときも、ここで振り回されたんだろ? それは何でだった? 話を聞いた限り、俺は思ったよ。他人の悪意に振り回されたんだ。じゃあ、考えるべきはそこだろう? 相手が仕掛けた罠の仕組みなんてどうでもいいことだ。そんなもんは、お前さんなら、その気になったときにいつでもどうにもできる。俺だって、お前さん程ではないだろうが、そのうち気づいて、多分、何とかできただろう」
そんな風に諭すように言う。小さな子供に、言い聞かせるかのように。気づきを与えてやるかのように。
「回りくどいわ……。何が言いたいんや!」
少年はその意図を汲めず、ただ、苛立った。まるで子供だ。年相応の子供。堪え性が無く、相手の意図を考えない、身勝手な子供そのもの。
少年の弱点。子供故の心の特徴が、そのまま、少年の弱さであるのだ。大いに長所として働くこともあるそれは、逆に弱点として働くことも多々あり、そうなったとき、酷く、どうしようもない。
「考え方を変えろってこった。やり方は一つじゃ無ぇ。どうやったっていいんだ。お前さん、俺に今見せてくれてただろ。んでよぉ。俺も思いついた訳だ」
本来話が通じなかったりこちらの言い分を一切聞かないどうしようもないような相手ではないと測りきった筈な相手が、自身の言う通りにしてくれないことに我慢がならない。そんな捻じれた、狡さを無意識に振るう少年は、
「くどいって……、言うてるやろがぁあああああああああっっっっ!」
狡いガキらしく、思うが儘に、拳を振るった。
パッ…―!
豪快な男の掌が、少年の拳を真っ向から握り、止めた。そして、豪快な男は薄ら笑った目をしながら大きく大きく口を開け、その歯を見せる。唾液がべっとり糸を引き、それは少年の目の前に。
「っ……!」
目を見開いて、びびる少年。先ほどの怒りの熱は何処かへ追いやられ、動けない少年。怯えるでもなく、ただ、その異様さに呑まれていた。だから、動けない。目の前のそれの次の動きがはっきりと想像できているにも関わらず。そして、
カチン!
「……(は……)」
その口は、少年に噛みつくことはなかった。少年の目の前で、大きく音を立てて閉じただけだった。頭は殆ど真っ白で、思考は形にならない。そして、
ニィィッ。
息の掛かる距離で、豪快な男の顔が、豪快に微笑んだ。
ごくり。
硬直は解けて、少年は、ただ、唾を飲んだ。そうなれば、考え始める。
予想のどれにも掠らなかった展開。なら、何がしたかったのだろう。何の意味があったのだろう。狙いはどこにあるのだろう。
非常に分かりやすいのに。それがどれ位かといえば、少年と同じ年頃の子供であろうとも、浅い意味くらいは解するくらいに。もう少し成長していれば、その深い意味まで容易く解するくらいに。
浅い意味で、からかい。
深い意味で、示唆。
そんな、ただの、狂言染みた子供騙し。
だが、だからこそ、少年には効く。対人関係に乏しい少年にはとてもよく効くのだ。
「一旦、落ち着け。なっ」
豪快な男は優しくそう言った。
そこまで言われて、少年ははっとして、自分が無駄に無意味に熱くなっていたことに気づいて、しゅんとなった。
「……」
言葉無くとも、態度が自身の非を認めていた。少年は精神的にこういう部分でガキではあったが、クソガキでは決してないのだから。
男は、少年の背に手を伸ばす。触れるかというところで、その手は止まった。けれども結局、豪快な男の手は、少年の背中に触れた。そして、しゅんとする少年の背をさすってやっていた。無為に言葉を掛けず、顔を覗き込もうとせず、ただ、撫でた。
豪快な男をそうさせたのは、大人が子供に接する際の優しさに依るものだけでは決してない。




