第二百八十三話 攫われの御姫様
「……。お姉ちゃん、どこや……、お姉ちゃぁぁぁぁんんんんっっっっ!」
少年はそう、踏み立った地で、叫んだ。
海の底。巨大なドーム。自分たちがどれだけ手を伸ばしても届かない位、高く、広く、広がっているドーム。仄かに白く光る、透明な壁面。その外に広がっている、暗い、海。
だからそこが深海だと視認できていた。
自分たちが立つのは、壁の内側、その最外縁辺り。
ドームの中央辺り。遠く、遠く。そこに、大きく聳える影。それが見掛け通りだと言うのならば、塔のように聳え立つ、連なる数多。
そして、鼻も夜目もきく少年は、知覚できる範囲に、リールがいないことにすぐさま悟った。瞬く間に、消えていた。
目に映るものによる影響という可能性をこれまでから危惧していた三人は、上から、不透明なカプセル型の昇降機にぎゅうぎゅうに乗り込んで、目を瞑って、三人が互い互いに肩を組んで、降りることを選択したのだが、それが止まった途端、少年と豪快な男は、それぞれ片方の肩から、触れるものが消える感覚を感じて、目を開けて、カプセルから飛び出したのだ。
「落ち着け。そう遠くへは行ってな…ー」
ガッ!
「んな訳あらへんやろっ! ここは海の底やぞぉぉっ!」
「あぁ……、なら、数日差ってこともありえるのか……。それに上でのあの調子……」
豪快な男の胸元を、引っ張り、無理やり前のめりにさせて巻き込んでいた少年は、男のその言葉に更に強い怒りを覚えた。
ピキッ!
「そうや。あんたが要らんこと言うたからやぁ! お姉ちゃんは、狼狽はせんかったよ。時間のずれがあるってわかったとこで、覚悟は済んどったみたいやったし。けど、焦っとった。時間が無い、とかそういうタイプの! 聞いてもなぁ、『急いでここから出ないと。確認、しないと。』って、問い質しても堂々巡りや。けど、あんたに詰め寄らんかった辺り、あんたに聞いても多分どうにもならん何かがあるんやろう! 分かるんはなぁ! 何かまた抱え込んでしまってるってことだけや!」
まくし立てる少年。
あのタイミングで、あのような爆弾を投下してきたこと。それも、半ば逃げるように。少年の怒りは正当なもの。
だからこそ、豪快な男は繕うこともなく答えた。
「知るなら早い方がいい。隠さないと決まった以上、こんなこと、終わった後で言われたら何が何やら、だろ? 言わない方がいいと俺も最初は思っていたさ。だがな、もしもを考えたら、言わない他無かった。さっきのあのタイミングで知るのと、ここで、俺以外の何かから聞かされてそうだと信じざるを得なくなっちまうのとどちらがいい? リスクなんだよ! 爆弾なんだ! 立ち上がる強さを持つあんたらなら、…―」
すっ。
「もういい」
少年は、豪快な男の胸元から手を放す。
「言わせたんは俺らや。八つ当たりしてもた、ごめんなさい」
ぺこり。少年は頭を下げた。
「一応言うが、この光景、俺は知らない」
「やろな。俺も知らんわ。こんなメルヘンになるって、どういうことや……」
深海。巨大なドーム。
「どっから探す?」
「一本道やし、進むしかないやろ」
「一本道……? だが、そうなったのは、あんたらの報告の一件だけの筈だぞ?」
「後ろ。帰り道、とっくに消えとるよ」
すっかり、少年の頭は冷えきっていた。焦りが無い訳ではない。ただ、怖さが心に濃く広がっていた。それでも考えることをやめないのは、思考を止めてしまうことは、見捨てることと同義であるから。
男は背後を見た。乗ってきたカプセルは、跡形もなく消えている。
「……」
そして、少年の方をまた向いて、
「言う通りだな……。ただ……、……。いや、何でもない」
豪快な男が飲み込んだ言葉。それは、少年の心の切り替えが、起伏が、あまりに激し過ぎて、怖い。怖いのだ。しかも、不安定なのか、元からそういう精神性を持つのか。何れにせよ、恐ろしく仕方がない。背中を安心して預けられる相手では、決して無いのだから。
「俺が、怖いんか?」
ぞくっ。
豪快な男の背筋に、寒気が走った。自身と比べたら、一回りも二回りも体の小さな少年が、真正面から見上げるように、自身に向けて、真っすぐ、見通すように言うのだから。
「怖がられるんは慣れとるよ。村でも、そうやったから。外でも……変わらへんんやな、やっぱり。あの船とおった人らが特別やっただけなんやな。なぁ。あんたは、見たやろ? お姉ちゃんと一緒に泣いてた俺を。人間なんや。あんたと同じ。違うやつ、やないんや。……。二手に分かれよか」
淡々とそう言ってのける少年。そんな風に、淡々と、言わせてしまったのだ。無理をさせてしまったのだ。そのことを、豪快な男は恥じた。
(下から戻ってこれた子供。子供なのに戻ってこれた。並の大人なんかよりもずっと心は強ぇんだろう。だけど、子供なんだ。血も涙もあるんだ。気狂いでも無ぇ。やけっぱちでも無ぇ。ただ、こうするしかないと、分かって、こうしちまう、できちまう、奴なんだなぁ……。よく見れば、握った拳、震えてるじゃねぇか……)
がしっ。
「待てっ。お前、泣いてんじゃねぇか。そんな弱い奴、一人でいかさえられねぇ! 俺ぁ大人だ。お前より脆くても、弱くは無ぇさ」
少年はじいっと豪快な男を見つめ、そして、
「もう、怖がってへんなんて。凄いやんか。俺には無理や。できるんは痩せ我慢だけ。だから、頼むわ。命綱」
そう言って、少年は、自身の釣り竿。針と糸を、自身に巻き付けて、それと繋がった竿を、豪快な男に渡す。
「わ、分かった」
意図が分からないし、突拍子もない。だが、豪快な男はそれを受け取り、しっかりと握った。
「俺が前歩くから、やばいっ! て俺が叫ぶか、あんたの判断で、引っ張るか振り回すか、してくれ。あんたに戦闘力は無さそうやから、そこは俺がやる。けど、判断にはちょい今自信が持てへんのや。ほら」
豪快な男は、少年が話した、ここで味わったことについて思い出す。そして、確かに理に適っていると思った。
「ははっ、凄ぇ奴だな、お前」
「そういうおっさんこそ」
そうして二人は歩き出す。砂すら積もっていない、硝子質な音の鳴る地面を、ただ、ゆっくりと、歩いてゆく。硝子音は反響しない。そして、外側から聞こえてくる、海がゆっくりと蠢く音が、足音に混ざる。深く、深く。長く、長く。それらは示しているのだろう。中央までは、遥かに、遠い。




