第四十三話 かつて失った日
「おい、緑青。見ろよ、こりゃすげえぜ、大物だ。」
俺は気持ちが高ぶる。竿からずっしり重さを感じたからだ。
「そうかい? そいつをうまいこと釣って、僕たちの夕飯にできたらいいね。」
緑青は俺の隣でマイペースにひたすら雑魚を釣っている。俺たちの今使っている釣竿は通常のもので、モンスターフィッシュ用ではない。一応、リールはついているタイプだが、それだけだ。糸も針も通常品。あまり期待はできないという結論を出したのだろう。
「おいおい、つれねえなあ。」
俺はそう言いながら、徐々に獲物との距離を縮めていく。魚影しか見えていないが、それでも距離を詰めていけていることは分かる。あと30m、20mと。
「ちょっと俺一人じゃあきつそうだから手伝ってくれや。」
距離を詰めていくごとにどんどん重くなっていく釣竿。しかし、糸が切れそうな気配は全くない。だから、俺は判断を誤ったんだ。まだまだいけるとな。
二人で竿を引きながら、あと10m程度まで詰めたときのことだ。
「カイト、竿を放すんだ。これは何かおかしい。今すぐに!」
普段から大声を上げない緑青が、そのときは珍しく叫んだ。耳元でな。俺はそれに反応して、竿を離そうとしたところで、異変に気づいた。
「うっ、これはどうなってやがるんだ……。」
離れねえんだよ。竿が。手に吸い付いて離れない。
「すまんが、緑青。力が入っちまって手が離れねえ。なんとか引き剥がしてくれ。」
「君は無茶を言うね。僕は君の体を全力で後ろからホールドして踏ん張っているんだよ。どうやって、君の手を釣竿から引き剥がせばいいのさ。」
この頃には、すっかり力をつけていた緑青は、息を上げたり、噛み噛みながら言葉を発することはなくなっていた。俺たちは実力を確実につけていたからな。それが今回の油断にも繋がっているわけだが。
「竿が放せないならこのまま海に真っ逆さまだよ。ああ、そうだ。悪いが、そのまま暫く踏ん張っててくれ。一瞬で確実に何とかできるから。」
そう言って緑青は俺を放し、少し俺から離れてごそごそしている。何かを折るような音が響く。
「悪いけれど、手段を選んでいる暇はなさそうだね。だから、耐えて。」
自身の釣竿をへし折り、尖ったその断片を両手で握り締めた緑青はそれを俺の両手にそれぞれ思いっきり突き刺し、引き抜く。
「ぅぃ痛ぇえええええ! 何すんだよ、お前。何考えてやがる!」
突然のことに、踏ん張った姿勢のまま、涙目で顔を真っ赤にして緑青に怒鳴る俺。そしたらさ、緑青のやつ、真っ青になってやがるんだ。で、口を開いてこう言うんだ。
「どうして、どうしてなんだい……? どうして君はまだその釣竿を力一杯握っているんだい?」
俺も緑青のように、どんどん血の気が引いていったよ。とてつもなく両手は痛いのに、それで転げ回ることもなく、まだ釣竿をしっかりと握って踏ん張っていたんだからよ。
「こうなったらもう釣り上げる他はないね。」
緑青は再び、俺を背後からしっかりホールドした。二人でひたすら竿を引き、距離を詰める。竿ぶっ刺す以外にも色々試したぜ。俺の持ってる竿をへし折ってもらおうとしたり、手持ちのナイフで糸を切ってもらおうとしたりな。
だがな、無駄だったのさ。通常であればそれで終わりのはずなのによ、びくともしねえのよ。幾らやってもな。だから、もう釣り上げるしか道はなかったと思ってしまったのさ。
俺たちは必死に竿を引き、糸を手繰り寄せ続けた。普段であらば考えるはずの緩急も忘れてな。ひたすら、ただひたすら距離を詰めていった。糸が千切れたり、針が折れたり、獲物が自ら逃げ出したり。そういったことが今回に限っては絶対に起こらないとなぜか二人とも確信できたからだ。
それは突然のことだった。突然強い光が発せられる。獲物から。そして、体に走る痛み。刺されたような、貫かれたような痛み。痛みを感じた俺は自分の脇腹を見た。すると、孔が空いていたんだ。向こう側が見えた。そして、俺は後ろを見る。腹に孔が空いていた。口から血を吐く緑青。俺をホールドした手は外れており、地面に肩膝を付いている。
「……、まだ。まだ終わって、いないよ。」
また血を吐き、緑青はその場で丸まり込んだ。こいつはこの怪我の中、しっかりと目の前の現実を捉えていたんだ。この戦いは終わっていないことに。なぜなら、俺の手がこの事態を前にしても釣竿から離れていないのだから。
俺は竿を引き続けた。必死に。俺が竿から手を離せない限り、瀕死の緑青を助けてやれない。こいつはとても動ける状態じゃなかったからな。
獲物は先ほどの光を放出したことで力をかなり消耗していたらしく、後は崖下から引き上げるだけになったのさ。するとな、足元の崖が急に傾いたんだよ。俺たちを貫いた光の束は、崖を貫いて俺たちを貫いていったようだったからな。これも、気づくのが遅かったんだ。
後は、前にお前に話した通りさ。緑青が、力を振り絞って俺の正面に飛び込んできてよ、俺を崖とは反対の方向へ思いっきり押したんだ。そのときのあいつは、笑顔だったよ。
最後に何か言っていてな。その時は何て言っていたか分からなかったが、口の動きを覚えていたから後で調べたんだよ。すると、"生きて"と言ってたんだよ、あいつ。すまん、っ、ちょっと、中断っ、す、る。
光精征魚。釣り上げたそいつに俺はその名前を付けた。幸い非常に衰弱していたので、瓶に入れることができたから無事捕獲できた。そして、直ぐにそいつに先ほどの竿の断片を突き刺す。手は使えないから、歯でしっかりとくわえてな。すると竿が手から離れた。
手の傷口と、脇腹の傷口。それを着ていた服を裂いてぐるぐると覆った。脇腹は、幸い、血がほとんど出ていなかった。当たり場所が良かったんだろうな、……いや、悪かったのかもな。
緑青を助けるために海へ飛び込もうとすると、後ろから呼び声が聞こえた。悲しいがそれが聞こえてしまい、俺は足を止めた。悲しくも、あの船に長年乗っていた俺は、危機迫った状況というものに耐性が付いてきていたんだ。
後ろを振り向く。そこには、各地に散らばって休暇を楽しんでいるはずの船員たちが集ってくる。これは、後で聞いて知ったんだが、俺がいると知らせていた島から凄い強い光が打ちあがったのを見たから町で一番の高速船を借りて向かってきたそうだ。
「お前ら、どうしてここにいるんだ……。」
振り絞るように俺はそう言った。そして、海へと飛び込む。後ろから船員たちのざわめきが聞こえるがそんなものよりも今は、探さなくては、あいつを。
あのとき、緑青はまともに光の束に貫かれていたが、俺は掠っただけだった。
『生きていても長くはもたない。どこだ、どこに、どこにいるんだっ!!』
俺は周囲を泳ぎ回り、探す、探す、探す。遠くへ、どんどん遠くへと。
そして、不意に何かが俺の肩に触れる。
「緑青おおっっ!」
それは、船員だった。
「船長、何があったんですか!いいから落ち着いて話してください。」
他の船員たちも俺の周囲に一気に集まってきて、俺を取り囲む。
俺はそれまでの経緯を説明し、そして、
「頼む、お前ら。緑青を、緑青を見つけてくれぇぇ。」
最後に必死にそう搾り出した。
そう。緑青は見つからなかった。あらゆる手を尽くしたがな。数日経った後も、願わくばどこかの島に漂着していないか、……せめて死体だけでも、と俺は必死で探し回った。
当然見つからなかったさ。船員たちが周囲の町の人総動員してまで探してくれたのによ。半年が経過し、俺は諦めた。
最後の捜索の日。これまで砂浜に放置していた、緑青と乗ってきた小舟。それへ乗り込み、それを借りた近くの町へと漕ぎ出す。町に到着し、船を岸に停めるとき、ふと、足元で光る何かに俺は気づいた。
耳飾り。
あいつが、緑青が耳につけていた耳飾だ。見間違えるはずはない。俺はそれを回収し、その場で泣き崩れた。




