---153/XXX--- 褒美と見紛う宝の蔵
少年は、どんよりとした空気の感触が自身の体から離れてゆくのを感じた。
重みが――抜けていく、ような、気がした。心地よい磯の香りが、鼻に、うっすらと。体が軽くなったような気がした。
けれど、感じた香りはただそれだけでもないような――
散っていた感覚が、形を取り始める。少しずつ、印象は鮮明になる。
穏やかな静けさが漂っている。それに、危険は感じない。だからか、身体は弛緩しきっている。温かな白い靄に包まれたような温かさを感じて、まるで、安堵の中に、戻ってこれたかのような――
目覚めの、時。
蓋が、開く。目蓋が、開く。気負ってそうしたのではない。意図してそうしたのではない。滑らかに、すぅぅ、と、息をするかのように、自然に。
それはとても、清々しい気分。
白い光景。それが少しずつ、少しずつ、薄らいでゆきながら、ぼんやりと浮かぶ、人影。それは、近い。とても、近い。そんな気分に少年は浸りながら――ふと、何かが、目の前を、上方へと、横切る。それがきっかけ。それに引っ張られて、はっきりとしていく視界。励起する、意識。
瞼を、目を、意識した。
目を開けようと、光の先を見据えようと、意思を以って、見るために、見開く。
ぱちり。
鮮明になる。
なって、口から言葉が零れた。
それは、恐怖も、不安も、憂いも無い、無邪気な疑問。
「お姉、ちゃん? どうして、そんな顔、してるん?」
緑掛かったグレイの瞳が、傍にあった。その人の主に、尋ねた。十数センチの、すぐ傍という距離に、いつもの髪の括りが取れて、ばさっと、ちじれた赤い巻き毛をばさっと広げて。それは、その持ち主の顔よりも、少年の鼻に、近かった。
疑問符は、違って見えた印象のせい。
疑問符は、変わらぬ匂いが同定する彼女の正体の確かさ。
少年が見ているその開いた瞳孔は、未だ、力を失ったかのように混濁しているのか、焦点がぼやけているかのよう。
はっきり見えていない。捉えられていない。見開いた筈なのに、まだ目は霞んでいる。
それでも、時折、ピントが合う。
返事は無く、自身も動くつもりはない。鮮明になった合間に、映り、鮮明に一瞬を写し取る。憶えた光景を咀嚼する。解析する。目が慣れるまでのつもりだった。
優しく、力ない、唇。そんな口元は、穏やかに微笑んでいるようにも、虚ろに笑っているようにも。それに、恐らく動きは無かった。憶えた光景と光景の間に差分は無い。
その言葉の前からそうだった。言っている最中も、言い終わった後も、微塵の反応も無かったのだと、少年は解した。
すると、どうしてか、息苦しさを覚えた。
(どう……したんや……)
沈黙は続いているように思う。まるで自身が発した声は届いていなかったのだろうかと疑い始めるほどに。
(何か――)
思い出そうと、頭の中、過去へと時間を遡――
(白……? ? 、?? 無……い……? 何や? こんなん、知らんで……)
違和感に気づく。忘却とは明らかに違う。断絶している。何も、無い。欠けに、気づく。そしてそれは、まるで、何のとっかかりもない。忘却特有の、何だかのとっかかりがどこにもないのだ。
無い。
無い。
何も、無い。
だから、内心で、慌てた。だから、更に、向こうへ。より、奥へ。その白を抜けて、過去へ遡ろうとすると、急に、光景は薄く、黒く、淀んで、あっというまに、真っ黒に濁った。
あまりそこにいたくない気分。何だか、喉元が苦しいような気がした。深い、海。夜の海。錯覚だと思った。けれども、そんな温度と冷たさを感じ、そこにいたくない、と突っ切るように更に遡った。
薄い線が浮かび上がる。朦朧としていた頃の意識。断絶的な数枚の絵を、集めて、無理やり形にして、像を結ぶ。
影が、浮かんだ。
自身は、宙にいる。何かが、伸びている。こちらへ向かって。それが、自身を宙に居させているのだということが分かる。その先にいる何かは見えない。
見ようと、
どくん、どくん、どくん、
した。見ようと
どくん、とくん、どくん、
したら――
どくん、ぃぃ、ぐぐぐ、ぐぁん、
影は歪んだ。
亡者の姿になった。蠢く亡者の群れ。それらが、折り重なって、生えて、ほつれて、塊になって、手の形になっていた。それが、細く収縮されて、自身の喉元へと伸びていた。
冷たさの理由。圧の理由。それは、死者。それは敵対する者。
答え、と帰結し、影は散った。
浮かび上がる、戻るときは一瞬。現実に、立ち戻る。
靄は晴れて、しっかり見える。
まだ変わりない。こちらを見ていて、見ていない。らしくない反応。いや、らしくない無反応。らしくない。なら、その原因は? 待っても本人の口からその答えが聞けないのならば――そう。
「俺ら、無事、戻ってこれたんやなぁ。はぁ、よかったよかった」
言わせれば、いい。
リールをしっかり見た。髪の毛を下しているせいか、影掛かって見えた。暗く見えた。そのまま、焦点を、遠くへ。
リールの膝の上。少年の、頭。リールの膝の上の少年の頭は、俯くようにこちらを見ているようで見ていないリールの、遥か頭上を見た。
半球状のドームのような、白く明るい天井を背景に、リールの表情の、目元の憂いが強調されていた。目元には、泣き明かした跡なんてない。なら、これは悲劇の末ではないのだと少年は取り敢えず、今が最悪の状況では無いのだと、少しばかり楽になった。
ここは、別の場所。あの海の底とは明らかに違う場所。気配が違う。違う。けれども、質は似ている。
遠望の故に、気づいた。周囲に意識を向けて、広げていくことに繋がったのだから。
だからだろうか。息が少しばかりしにくく感じるのは。
少年は、思う。
知っている気配があった。一つではなく、複数。違って、在った。
馴染みのある気配。恐ろしいが、励起していない気配。じっと、じぃっと、接触を待つ罠の気配。力を溜めて溜めて、ひたすら溜めているような気配。
知っている。
それらの同族か近類の気配に触れたことがある。知らないものもたくさんある。
好奇が、浮かび始める。
(んん?)
自然と、身体を起こす。
髪が、少し頬に掛かる。それを横に流すように、起き上がり、立ち上がり、そこを、見渡した。
先ほどまで、心を覆っていたものなんて、無かったかのようにどうでもよくなり始めて、好奇がそこに居座って、大きくなってゆく。
ところどころに箱やら何やらが新しい古い様々に乱雑に、積み上がっている。集積されている。そのところどころに、強い気配の塊が、点在していた。
数メートルの距離の箱の上。見覚えのある貝殻が見えた。しっかり憶えている。
自然と歩き出す。周囲を見渡しながら。
(……)
順路左にある、透明な海月のような袋の中。真っ赤な、血色の、返しのついた針。それは、モンスターフィッシュ、【アカクギアナゴ】の骨。
(わあ……)
順路、目的の貝殻の更に後方にある崩れた箱の一つから覗くそれ。影と光の境界で、うっすら半透明に存在が見えたそれは、1メートルの至近を前兆無く一瞬で貫く不可視の機構、モンスターフィッシュ、【イッポンバリウニ】の死骸。
(わああ)
どれもこれも、実用性と希少性共に高い品。モンスターフィッシャーたちですら、即時保護か即時加工かの絶対二択になるくらいの。
(ああ、わああ~!)
「す、す、すんげえええええええええっ!」
とてもとても、身体も心も軽くなって、そのまま駆け出した。
そこはまるで――モンスターフィッシュ由来の、宝の蔵だった。




