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モンスターフィッシュ  作者: 鯣 肴
第?部 最終章 それはXXXの時間の檻

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---149/XXX--- 時址の灰の演目 ~埃積の家・急 前編~

「どういう……つもり?」


 冷たい声だった。


 これまでに見せられたことのない、聞かされたことのない、きっとそれが、彼女の本当の声色。まだ、そんな女性ならではの繕いの所作を知らない少年であっても、その態の意味するものを取り間違う訳はなかった。


 威。その振り下ろされるような感覚は、少年にとっての道。


 圧。その冷圧は、皮膚ひふ鳥肌とりはだを立たせ、それをそのまま固めてしまうかのよう。おかしな感覚。異様な比喩ひゆ。しかし、それは少年にとって、想像だにしない、ありえないことであったが故に、今それは、少年の感覚の観測的かつ言語化された表現として成立する。


 威の部分は未知。圧の部分は、彼女からそうされるという意味で未知。彼女からそうされたという、絶対的に信じていた何かが否定され、砕かれた感覚という意味で想定の外。


(お……お姉……ちゃん……)


 恐怖。


 おびえ。


 ありえないはずのこと。


 他者にそうされたことが、少年を貫いたという訳ではない。圧。その連鎖におそわれることなんて、何度もあった。生まれ育った島でもそうだった。つまるところ、生きてきた9割9分、ほぼ全部がそうだった。


 だからといって、それで折れはしなかった。くじけもしなかった。ただただ、辛かったけれども。


 ポトッ。


「っ……。スッ」


 不意に垂れてきそうになってすすった鼻。


「お姉ぢ……お姉ちゃん……?」


 自身が泣いていることに気づいたのと、単純に怒りの意図を問おうとの疑問符が重なる。像から触れた片手を離すことすら忘れて。


「ズッ、スゥゥ、」


 ちょっとすすりきれないあふれ方に加え、視界が湿っぽくゆがんでいることに気づき、


「グイッ、グゥゥゥゥ! シュッ!」


 空いている方の腕を上から斜めに鼻に押し当て、思いっきり鼻をかんで、顔から離しながら返す手首の先、で、手先の側面で、両目を通る軌道でぬぐった。


(泣くな! 何でかも分かずに!)


 自身の情けなさにかつを入れながら。


 悲しい強がり。この年頃で、そんなことができてしまう辺りが、本当にあわれだった。きっと、普段のリールであったなら、そのまま、感嘆の涙を浮かべながら、抱え込むような温かい慈悲を少年に物理的にも精神的にも向けたのは間違いないくらいに。


 しかし、そうはならない。


 彼女は、少年に、図らず見せてしまった。見せぬように努めてきた、内側を見せた。これまで見せずに努めており、ぼろを全く出さなかった。その意味は――


「何で、触ったの? 何が起こるか分からないのに。危険なのよ、それは。きっと、とてもとても危ないの。きっと、その石の層一枚下は、悪意がまっているの」


 彼女が、少年を、唯の都合の良い、愛玩あいがんとしか見ていなかったから。


「……」


 少年は沈黙した。


(何で……? 何で……?)


 その心の内は、がたがた、震えて、それでも考えずにはいられなかった。分からないものを考えることを、彼女が用意しているたった一つの一方的な答えという、理不尽に辿たどり着くよう強制されていた。


 少年は、涙の痕残あとのこる目元に冷たさを感じる。ぶるぶる、と唇は震え始めていた。青ざめ始めていた。まだ1分も、心冷たく刺されてものの1分程度しか経ってはいないのに。


 立っていられるのは、意図せず、支えとして残った杖代わりの石像と、自身の片腕のせい。崩れてしまえば楽だったのにそうはなれなかった。


 冷気に更に何度も何か所も追加で刺されるような感覚を浴びることを強いられる。


 批難を、受け続ける。よりによって、絶対に自分に対しては絶対に、他の大人たちや、それに付和雷同の子供たちのようにはしないであろう、もういない家族と並んで、信じこんでいた、唯一のその人物に対して。


 もう、唯一の、無条件に全てを信じこんでいるその人物に。


「――! ……、――っ! ――?」


 声は、尖る。普段よりもずっと、冷たく、低く、ドスの効いた、しかし、下品さはなく、威に拠って重い。それは、命じる声だ。それは、強制する声だ。それは、支配の力込められた、声。


 もう少年の耳に、それは意味を為して聞こえない。もう、少年の意識は逃げ惑っていた。逃げられないのに、頭の中という円に閉じた狭い暗所でぐるぐると消耗しながら逃げ惑う。


 トン、トタン、トン、トン、トン、――トン。


 スウウゥ、ギッ、


 そうして、目線を下方に向けて、半ばうなだれるように力を失っていつつも、そんな少年が支えにしていた方の腕の手首をリールの手はつかみ、


 がし、引っ張り、


 かくん、


 と前側に崩れそうになる少年の体は、掲げるように少年の掴んだ方の腕を上げ引き寄せたことで止められた。そして、


 だらん、と首をたらし、下を向いてぶらりとする首についた頭は、顔は、大きく見開いて、瞳孔どうこうは小さく萎縮いしゅくし、そんな頭から下は反応が止まっているかのようだった。


 リールにも今の角度からして見えず、少年自身も、そんな自身の表情を認識することなんてできない、それが、二人の関係の転換点。


「言って分からないのね。じゃあ、ばつ、よ」


 グ、バァァ、ドスゥウウウウウウウ、ミシシシッ!


 少年の腹に、踏み込みからのリールの片膝かたひざがめり込む。よりにもよって、硬度重量共に生足以上な、右足義足で。肉スプレーによる疑似皮膚は、付き穿うがつようなり上げの緩衝足かんしょうたり得ない。


「ごぶぅううう……」


 それでも目を動かすことも、声を上げることもなく、少年の口から、虚ろにき出し、き散る胃液色。


 少年の頭が、り上げの衝撃から持ちあがったために、その吐瀉としゃはリールの腕やほほなどにも飛沫ひまつとしてかかるが、リールはそれに目をぴくつかせも、驚きも、これまでとは違って踏み越えてやってしまった暴虐ぼうぎゃくを気にも留めない。


 ただ、冷めた目で、かくん、と首を、身体を、力無くうなだれて、顔は衝撃しょうげき残滓ざんしで真上を向いてしまっている少年を、その手首を上斜め方向へと引っ張り上げるようにつかんだまま。


 そうして、やがて、ゆっくり、少年の首が、力無く前側へ、かくん、と、ぐぐぐ、ぐわん、と、また、うなだれるように落ちてゆく。


 そのときの少年の顔は、虚ろそのものだった。目は開いたまま。力無く、虚ろ。口元は切れた口の中から流れる血と混ざった吐瀉物の残りをぽたりと軌道に沿って散らしながら。


 その顔を、リールはその目で確かに捉えて、見据えて。それでも、彼女は、何もその心に抱かなかった。


 ただ、冷めていた。


 ただ、当然のことをしただけ。


 息をするかのように。だから、そこに意図はない。そこに思考はない。ただ、そうするのが息をするかのように当然で、ただ、そうした。


 たった、それだけ。

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