---134/XXX--- 幻現雨の後に
気づけば雨音は消え去っていた。なんの前触れもなく。止んでしまった。そう、止んでしまった。なら、
「雨……止んだね……」
「そうね……」
「行こっか……」
「そうね……」
外に出る他、ない。その場に留まっている口実はもう無いのだから。それでも留まって、じっと閉じ篭っていたい気分が背中に触れるのから逃れるように、二人は中身のない、碌に意味もない遣り取りをしながら、雨が止んでも、まだ、灰色に薄暗い空の下へと、出た。
サスッ。
ズスッ。
地面は湿ってなんていなかった。雨の痕跡は、無い。まるでそんなもの嘘であったかのように。ぱらぱらに乾いていた。二人は肌に感じていた、雨宿り前のつぶての冷たさを鮮明に覚えていた。それに、二人の衣服はまだ半乾きであったのだから。
「……?」
「……?」
そして、疑問を含んだ沈黙。そして、それを再度、錯覚でないと確かめるかのように、一歩、二歩。
ズスッ、ズズッ、
ズッ、パリッ、
あるべき石畳を踏みしめるのとは全く別の踏み音が鳴っていた。
「……」
「……」
二人は互いに顔を見合わせたりすることなく、それ以上考えることもなく、まるで思考を停止したかのように、歩き始める。
パリッ、ザサッ、ザスッ、ザッ、――
ザッ、ズッ、サッ、ザスッ、――
足並みは揃っているのに、足音は揃わない。それはひとえに、二人の足元の状態故だった。
柔く凸凹と不安定で、踏みしめた一歩は不均一に沈む。そんな不安定さ故に、歩調を合わせることなんて到底無理だった。
さらりとしたまるで砂のような踏み心地に、小さく薄い何かが割れるような裂けるような音が、足音に混じる。
ザスッ、パリッ、ザスッ、
ズスッ、スサァァァ、ザスッ、
何かがさがさしていた。何かさらさらしていた。
一歩ごとに、粉塵が舞う。灰色のそれは、二人の鼻腔を燻らせる。
「……」
「……」
何もこうやって沈黙しているのは、舞うそれらをあまり吸わないで済むようにするためだけではない。嫌でも分かる。また、何か碌でもなさそうな気配がする、と。現実にしても幻覚にしても、わざとらしさすらある。
お誂え。
(今度は――か)
(これ、どうやって沸いて出たんでしょうね……。出所はきっと――)
少年にしてもリールにしても。二人共に、思考を止めるということにどうしようもなく不慣れであったから。
少年が、動きを見せた。
きっとそれは、リールより先に一先ずの落ち着きと、投げ出さず直視する心の準備ができたから。向かい合うのは、またきっと出鱈目そのもので、きっと、いや、もう殆ど確信に近かった。
そして、自分がやらないでいても、事は、進む。やらせることになる。ならば、と。少年は動いた訳だった。
ザッ、ズッ、スッ、フスッ、
一歩と一歩の間に、少年は、腰を低くし、雨の前にも雨の最中にもそんなものは姿形無かった灰色の薄いシートの断片のようなものと粉の混じったものが一面に積もっている路面の地面へ、指先から掌までを埋め、さっと、掬い上げる。
こんな七面倒臭いことをしたのは、リールが気づいて先にそうしないようにするため。直接触れるのだ。何か影響があったとしてもおかしくない。しかし、何もやらねば堂々巡りで、自分がやらなければきっと、リールがそうするだろうと火を見るよりも明らかだったから。
ゥゥゥ――ザァァァァァァァァ――
(……、灰……? やけど、このパリパリしたんは、何……や……?)
(……何これ……、煙……?)
少年の答えは、半分にしか至っていない。リールは少年の配慮故に、反応が酷く遅れた。まだ碌に考え始めてもいない。
リールの頭の中は、場の雰囲気に引き摺られて、ただひたすらに、悪い方向へ事が運ぶ様々なもしもで、悲観に満たされていただけだったのが、そこで途切れた。やっと目の前の自体について直視し始める。見ているようで見ていなかった、前を。先を。
当の本人であるリールはそのことにすら気づいていない。消耗していた。これ以上なく。リールは少年より多く、持っていた。生きて、通ってきた道の途中で、背負ってきた。実質背景も何もない、持たざる少年との違いが、そのまま、二人の消耗の具合の差であった。
ザァァ、スゥ、サァァァァ――
それらは指の隙間から零れ落ちてゆく。吹く風が、それによって灰色に色付いた。
パリッ、ザサッ、ザスッ、ザッ、――
ザッ、ズッ、サッ、ザスッ、――
歩く二人の目の前にそれは舞った。横切っていったかのようなそれを見て、少年はそんの少し後ろにいるリールに尋ねる。
「灰……やんな。これ」
少年の指の間に残っていた灰は、ものの数秒で、さらさらと吹き流れて消えていった。手汗にすらくっつかない。わざわざ息を吹きかけずとも、風が吹かずとも、湿らず、乾いて、ひとりでに吹き消えたのだった。
少年がそう口にしたのはわざとだった。わざとらしく、話を始める。意識を向けさせる。誘導する。見るべき周囲に、リールの意識を。
少年は恐れつつも、やはり前に進む。自分一人では分からない。だから、頼る。遠回しに。
「よね……。でも……、これは、灰は灰でも……、量、多すぎない……? ポンちゃん……」
「お姉ちゃん。まさかやけど……、これ、ここで死んだ人らの灰、だなんて言…―」
「……」
「お姉ちゃん……」
後悔する。けれど、それは後退の理由にならない。寧ろ、ここで話をやめてしまったら、ただ、傷つけただけになる。
(半端が……一番、あかんのや……)
怖い。怖い。少年が怯えているのは、まだ見ぬ先。あるかもしれないもしも。そしてその線は、現実からきっとそう遠くはない。それでも、
「また、謎かけ……? ねっ! よねっ! ……。…………」
(もう、悲惨なものを見せられるだけなんて、嫌……。悲惨な目に遭わされるだけなんて、もう、嫌……。嫌よ……)
「お姉ちゃん……。……、もう、逃げるんは、止…―っ! くぅっ!」
灰色に地面に大きく薄く、確かに映った、影。少年はそれに咄嗟に気づき、反応して、リールに向かって飛び込むように、押し倒しながら、そのままの勢いと共に、抱く姿勢になって、
ドッ、ブッ、ザッ、ザッズスゥウゴロッ、ザッ、ザザッゥウウウ、ブゥウウウウウ――
共に、転がる。その場からできる限り、離れるように。必死だった。説明も目くばせもする余裕はなかった。そして――少年の体感は、限りなくひどく、間延びした。
ゥウウウウウウウウウドォオオオオオオオオオオオオオオオオオオゴォオオオオオオオオオオオオオオオオンンンンンンンンンンンンンンンン
落ちてきた。塊で、いくつか。巨大な石の塊。それらが数十個集まって。そしてそれらは、少年の目が霞んでいなかったとするなら、確かに――人の形を、していて……。
少年は自身の身体で、リールの顔の前を、間に合え、と強く想いながら遮った。そして目を瞑る。
途端に、時間の流れは元に戻る。
浮かぶ。それらの顔が。目が、合った。確かに、合った。合った、と、錯覚した。なぜならそれらは、純粋な死体ではきっとなかったから。そして、当然、生者でもなく。
怨嗟。苦しみ、泣き、絶望し、もがき。そんな表情をした、まるで迫ってくるような表情の、女子供ばかりの顔。それらは、衝突と共に、灰に塗れながら、砕け散っていった。
ザァアアアアアアアアアアアアアアアアアア――ゥゥゥンン……。
目を瞑って。ぎゅぅっと、リールを抱き寄せるように丸まって、
(お姉ちゃん……。どうか、あれらと目があってませんように……)
少年は力なく、祈った。




