---129/XXX--- 残痕の蔵 後編
ぺらっ、
(……タイトルは無い。紙の切れ端に小さく針金のような文字がぎっしり……。不気味な感じがするけど……、今更やな……。読もう)
ぺらっ、
紙は捲る度に音を立てる。質はそこまでよくないが、ぱらぱら崩れてしまう程に劣化はしていない。見るからに傷んでいる、と言う感じではなかったのだから大丈夫と判断しつつも、ぱらぱら崩れるなんてことも、あってもおかしくないと少年は承知でいた。だから、そうならなかった幸運に、偶然に、感謝した。
付いた監視の糸から、視線から、わざとらしく、それを意識しないようにして、読み進めていく。
(【日付を数えるのをやめてどれくらいになるだろう。いや、もうそんなことはどうでもいいのだ。考えるべきは、いつこれが終わるかだ。どうすれば、満たされたと判定され、天への光柱は降りてくる? それすら分からぬまま、次々と同胞は、空気に溶けるように消失する。そうして、今日、妻が消えた。それすら忘れてしまいそうなことが私は恐ろしくて堪らない。だから、せめて残そうと思う。文面に込められた熱量を明日の私が余さず読み取れることを信じて】)
リールが目を覚ます前に、また、背負って出て、ここを後にするだろうことも考えて、少年は一字一句を暗記していた。能力的に難しいことではない。それでも、責任という圧が掛かるこの今であっては、その難易度はやはり、跳ね上がる。
(どういう、ことや……。気が狂ってるんか、この場所が正気を奪ってるのか。どういう前提で見るかでだいぶ変わりそうや……)
少年の迷いなき、時に読心の如く、根本へと迫る直観が、まるで働いていない。平静と比べて、妙に選択岐が絞り切れないことに、気づきつつあった。
(……当分お姉ちゃんは目覚まさんやろうし、ここには罠も危険の気配もない。部屋全体見た感じや、息吸った感じのホコリの量からして、ずっと扉は閉じられていて、長い間、誰も出入りしてない……筈や。けど、机や椅子のホコリの量を信じるんやったら……。あかん……。兎に角、次、や)
ぺらっ、
(これは、……何書いてるか分からへん……)
ぺらっ、
(黒塗りやな……。この部屋にこのがさっとした厚い紙質からして、透ける訳あらへんな……)
ぺらっ、
(ん……? これは、外で見たのと、関係、あるんか……? 【黄金の稲穂は収奪の証。想い喰らいて在り続ける】 くっ、これで終わりか……。次や、次。もうちょい、間を詰めるもんが欲しい)
ぺらっ、
ぺらっ、
ぺらっ、
掘り進むように捲る。捲る。捲る。目の端で拾い、なぞり、関係もなく、関心の端にも引っ掛からないものは、もう読み飛ばすことにして。
ぺらっ、
(【果ては、何処だ。出口は、無いのか? 領域はまるで無限に広がっているかのように終わりない。繰り返している訳でもなく。だから私たちは確かに、囚われた】)
そこに書かれた情報は粗方同じ事実を指し示しており、書かれた自体の多種多様性から、これが、まるで、この場所についての、大多数に認められた法則のように少年には見えてきていた。
ぺらっ、
ぺらっ、
ぺらっ、
ぺらっ、
(これかっ……?)
捲る手が、完全に止まる。手にとったその時に、分かった。それには、何か、重みがある、と。すぐに、十数秒が経過した。それでもまだ、手は止まっている。文面そのものからも、少年は手応えを感じていた。しかし、
【安らかに忘却し忘却されることで成る、終息。この嗚咽すら、絶望すら、明日には忘却の彼方。】)
それは、抽象的であった。答えそのものは、はっきりとは書かれていない。しかし、背後から、頭上から、遥か遠くから感じる視線のようなそれが、揺れを発した、つまり、何やら感想を抱いたことを感じた。
それ自体が、答え合わせ。向こうは今のところ気づきもしていないが、ばれれば、きっと、こちらへの対応が変わるであろう、危険な行為。少年は、地雷の上を躊躇なく歩いていた。
少年は、過去二回の、最も大きな形で、凶兆とその答え合わせができる材料が揃っていつつも、それに気づけず、何も知らずに何もせず、それで詰んだことを思い返す。祖父母の死と、父母の死。
及ばず、失敗することなんかよりも、それはずっとずっと、怖かった。もし、あの時に動いていたら、動けていたら、別に、それで自身が失敗して、死んでしまっていても、それでも、まだ、あのどうしようもない想いに比べたらまだずっと、ましなんだ、と。
死人の考え。持たぬ者の考え。それが、どれだけ報われない、救われない、哀れで、可哀想なものなのか、少年は、まだ、知らない。
本来であれば塞ぎ込むような思考を抱きつつも、それでも、神経の集中の方が遥かに勝って、焦点が合わないように薄まって、まるで自身の中に同一の自身が複数いるかのように、処理は飽和せず、並列に、万全になされている。
気づける機会ではあった。しかし、ここで気づかなかった。そのことが少年にとっての吉となるか凶となるかは、まだ今、ここでは判明しない。
(……。出口は東西南北には、無いんやろう。上や。外から見た通りに、上、や。なら、何処に続いてるっていうんやろう。けど、その前に、探さんと。どうやって出口へ向かえばええ?)
少年の意識としてあるのは、最も意識の上層にある思考、先へ進むべく構えた思考が活発に動いていつつ、傍のリールが目を覚ます予兆も、何やらの接近も今のところないと断言できる位にまだ感覚は尖っているままだ、ということだけだ。
(……。あぁ、中央や。この、農村とも言えんくらいの、ただの田舎道を抜けて、遠くに聳えるあの街へ。そこには何か、ある筈なんやから)
先を見た。見過ぎた。それ故に、じわり、と汗が噴き出たことになったのを少年は感じた。
ぼとっ、ぽとっ、――
紙片に落ち、その紙片の地色も相まってか、それは茶黒く、時に、黒々しく湿る。
(時間がない。いつまでが猶予かなんて分からへんけど、ここで足踏みしてたら何もできなくなって、ここの記録のひとたちみたいに、まるで最初からいなかったように消えるんや……)
目的地が、まだ見えない、取り敢えずの目標でしかなかった、かの街にすら、まだ辿り付けていない、そこまでの距離すら、測れない。そんな状況を強く強く、少年は自覚していしまっていた。
外がずっと明るいままでいてくれるなんて保障はそもそもどこにもなくて、不意に、黒い幕が落ちたかのように、若しくは、明かりが消えるかのように、暗闇が訪れてもおかしくはないのだから。
ここが、それ位の突然が、いくら起こってもおかしくない場所、環境であるというのは分かり切っていることではないか、と。
(……)
少年はもう、この場に留まっていたくはなかった。後ろから何かが追って来るような幻覚を一瞬脳裏に浮かべた。付けられた遥か上からの視線の糸からは何も変化はない。
それが自身の心が生み出した、不安から来る幻影であることは明らかだった。
それでも、少年は、机を離れた。まだ眠ったままのリールを、起こさないようにそろっと背負って、
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、――、ザッ、
扉の前に立った。心なしか、隙間から入ってくる日の光は弱まっているように感じた。
歯を食いしばる。
ギリリッ。
ドゥン、ギィイイイイイイイイ、
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、
気のせい、では、無かった。リールを背負っているにも関わらず、じわぁっ、と背中から汗が噴き出てしまうのを少年は感じた。
(……。焦るな……。焦ったら、あかんのや……。また……、またっ……、……ぅぅ……)
涙は何とか堪えた。声に出そうになった嘆きごと、飲み込んだ。平静を保つ術を駆使しているだけで、その心に実のところ、余裕が揺れるだけの幅は無いのだから。
グゥゥ、ゴォンンッ!
背後から、扉が閉まる音がした。少年は振り向かなかった。




