---127/XXX--- 残痕の蔵 前編
大部分が、掠れていたり、知らない文字であって、読めない。まともに読み取れたのは、この一文だけだった。そして、その一文は、
【違和を忘れた時、永劫は貴方たちを囚えるだろう】
意味深だった。
「……」
「……」
並んでそれを読み取った二人は、無言のまま、それぞれに思索する。
ところどころ剥がれ落ちた、枯草色の地色の覗いた、白い壁と、重厚そうな黒と赤鉄色がまだらに散った扉の前に二人はいた。
陽の加減は、この空間に降り立ってから全く変わっていないお蔭で、二人は書かれている文字を識別できた訳ではあるが、
「どう、思う? リールお姉ちゃん……?」
「血、に間違い無いと思うわ……。けど、どれくらい古いかは分からない。何度か期間を開けてなぞられた跡がある、わね……。おそらく、最近にも……。ここの時間の流れが私たちの知るのと同じ速さだったら、だけど……」
少年が沈黙を破ると、リールはそう返した。
リールは訝しんでいた。この建物の経年劣化の具合と、これまで道中に見てきた立ち入りすらできない家々や風車や水車などの構造物の劣化具合が釣り合っていないことを。
そもそものところ、ここに来るまで、数十年単位での、この地での人の断絶があったのかも知れないという位、リールは考えていたのだから。
だから、出た。口から。時についての疑問が。
「……。多分これ、脅しとか、雰囲気出しとか、悪ふざけじゃなくて、本当、なんやと思う……。えっと、……。…………。………………」
リールの返しと、少年が思っていたこととは、考えの土台からしてだいぶ違っていた。そして少年は、所見をどうやって言葉にするか迷っていた。少年とリールで焦点自体がそもそも大きく違っているようなのだから。
それでも、
「どう……なの……」
リールはそう切り返した。まず、目の前にある、血文字については、考慮すべきいくつかの事柄の中でも大きな割合を占めているものではあった。だからこそ耳を逸らすことはなかった。
「……。ごくり。ねぇ、リールお姉ちゃん。他に気になることって、ある……?」
少年は、目を見開いて、少し、まじめな顔をして、リールに顔を近づける。
おどけてみせたのだ。
緊張を、緊迫を、解きたかったから。あの海の底のドームの中で、自分たちが崩れ始めたときに、今はとてもとても感じが似ている風に思えてならなかったから。
リールは無表情になった。しかし、目は、ぎりっ、としていた。怒っている訳ではない、と少年は分かったが、それでも、何か、怖かった。気まずかった。
「ははっ、冗談やって。なんかちょっとホラーな雰囲気出してみたくなってん」
目を逸らすのではなく、少年は意図をそのまま口にした。このまま怒ってくれた方がまだましだ。黙って、変な空気になったら、それこそが最悪なんだ、とよく、分かっていた。分からせられていた。
しかし、それだけではなかった。もう一つ、意図があった。
(お姉ちゃん……、まさか――気づいて……へん、のか……)
「なぁんだ。やめてよねっ、ふふっ。他に気になるのはねぇ、この中に何があるかってことかなぁ、やっぱり。ポンちゃん、ちょっと怖いけど、この中はポンちゃんの言う通り、調べてみた方がいいと思うわ。ホラーなものがあったりするかもだけどね」
空気は弛緩し、不吉は遠ざかった。それでも、生きた心地が少年はしなかった。
どばぁっ、と手汗が溢れてくるのを感じて、手を後ろにやる。案の定、滴るように、手汗は流れた。だから少年はリールのそれに対して無言だった。何とか耐えようと、俯き気味に、目線を落とす。そうやって、結局、逸らしてしまう。
「……」
「ポン、ちゃん……?」
そう、リールが、少年の顔を下から覗き込むと、少年の顔は真っ青だった。何かに怯えるように震えている。歯を鳴らさないように何度かほんのすこしだけ口を開けて、震えている。
「どうしたの……。大丈夫? ご、ごめんなさい……」
よくわからないが、とにかくリールは、心配しながら謝った。
「ち、ちゃう……、ちゃうんよ……。ここ、やばいわ……」
「……。えっ……?」
「なあ、リールお姉ちゃん。お姉ちゃんさ……、お姉ちゃんらしく、ないねん……」
少年の言葉はひどく散り散りになっている。リールもそれに動揺する。そして、少年の言う、まずい、というのが、とてもとても重要なことのようであると直観した。だからもう、黙って耳を傾けることにした。
「きっと普段のお姉ちゃんやったら、あの、入り口の人以外誰も見当たらないこと、ここに来るまでそもそも、墓も死体も見当たらないこと、生活感の無さ、その辺を気にしたはずや。やのに、こんな浮いた、如何にもな建物、一体、何なんやって……」
少しずつ纏まってきた少年の言葉は、リール自身を指差していた。
「俺……、すごい……、怖いねん……。ここが、怖い。なんか、やばい、って感じてんねん……。でも、たぶんやけど、これが順路なんやと思うねん……。罠やって分かってても、踏み抜いて進まんと、先へ進まれへんねんやろなって……。海の底に落ちてから、俺ら、ずっと、そう……、やられてたやんか……」
少年が、想定していた以上に色々考えていたことと、自身が普段なら考えていることの半分も、どうしてか気づかないうちにすっぽ抜けて思考していることを、指摘されてやっと、リールは気づき始める。
少年は、震えを抑えるように、ガッ、と足を踏みしめて、ぎりり、と歯を軋らせて、焦りと衝動を顔に浮かべながら、歯切れ悪く、投げかけた。
「ほんで、今……。どうして、この扉開けて中入るのが危険かも知れへんって考えや、これみての恐れとかが全くないんや……」
「……、へっ……?」
困った顔をして、首を傾げるリール。そう。まるで意味が伝わっていない。認識も危機感も、そんなもの存在しないかのように、そこには向いていない。
しかし、気づいたのだから、意識は向く。なら、無視していたそれは、意識の中に漂い始める。少年がリールにずっと先んじて感じていた、臭い。それに、漸く、リールは気づいた。
(血の……臭い……)
血の気が引くリールの顔。ここがまるで、戦場の残滓が色濃く残っている、まだ、闘争の足音が遠くにいっていない場所であることに気づいたから。
それが、これまでこの、異国の田舎で見てきたものと繋がって、リールの額から、汗が、流れた。
とくん、どくん、どくん、どくんどくん、どくんっ!
少年は、躊躇を見せつつも、
「……、リール、お姉ちゃん……。俺らが、こうやって、前向きで、後ろを一切振り向かないように、足を止めないようにしているのって、何で、やった……?」
言うべきだ、と口にした。そして、
「不安、だから、でしょう……?」
返ってきた答えに、少年は後悔した。
「どうして、や?」
「……」
「俺らが、ここに流れつく前、俺らに何が起こった……?」
「……」
「俺らは、失った、やろ……? なぁ……、なぁぁっっ……。もう一度だけ、聞く、で……。俺らが、絶望する訳にはいかへん理由は、何や、リール、お姉ちゃんっ……」
「……っ、」
ポタッ、ポタッ、ポタッ。ぽたぽたッ、ポタッ、
それが零れ出したのは、少年の目から、ではなかった。
(しまったっ……! これは……、あかん……)
そう。少年はやってしまった。思い出させてしまった。思い起こさせてしまった。強く、意識させてしまった。
「しゅ……、シュトーレン……、ぁぁぁ……、うぅぅ、ああああああ、ご、ごめ、ん、なさい……、ごめんな……さい、ごめんなさいごめんなさ…―うっ……」
トンッ!
どさり。
「……」
リールの胸部に一発入れ、気絶させ、倒れ落ちるその身体をその下に潜り込むように支えた少年は、自身の首の後ろに、リールの手を回させ、リールを脇下から支えた。そして、体制を整えた後、リールを自らの背に背負った。
おんぶし、支える箇所を、何度か跳ねるようにしながら調整して、そうして、
(ごめん、お姉ちゃん。少し眠って落ち着いて。……。忘れることになったほうが、お姉ちゃん、ずっとずっと、後悔、してまう、やろ……。逃げるんと、今前に進むために意識を逸らすんは、別、やろ……。……、俺も、やばい……んやろうな……。くそっ……。まだ、手出しはずぅっと、続いとぉって訳、か……。けどな……、こんなままやったら、死んでも、死にきれへんやんけぇ……)
ぎりっ、ぎりりりりり。ぎりりりり。ぴきっ。
少年の口の奥から、奥歯が欠ける、音がした。
そうして、少年は、リールを背に抱えたまま、
ぎぃぃぃぃぃぃ……。
重々しい鉄の扉を、開けた。




