---123/XXX--- 観測者の好奇
トッ、トッ、トッ、トッ、――
トッ、トッ、トッ、トッ、――
並んで歩く二人。
周囲は薄暗くなっていく。蒼が、黒が濃くなってゆく。まばらに届いていた光。その量が減っているかのように。
「お姉ちゃん。今度は、本物みたいやで」
「そうね」
二人の数メートル先。そこからは闇。見えてはいない。しかし、二人は一つの気配が前方離れて表出したことを感じ取っていた。
二人は互いの方を向くことなく、前を向いたままそんな遣り取りをした。二人は妙に落ち着いていた。二人の外側が波立つように、揺らいだ。光の揺らぎが、ふわん、と、二人の進行方向逆に走り、通り過ぎてゆく。
二人の顔が、青白く照らされた。
そこには、失意も熱も無い。思いつめた風でもない。二人とも同じ表情をしている。互いを見ることなく、真っすぐ進行方向を見ている。無表情、に近い。感覚を、研ぎ澄ましている。
ただ、二人は、集中していた。
トッ、トッ、トッ、トッ、――
トッ、トッ、トッ、トッ、――
「どこに、出るんやろ」
「どこに、着くのかしら」
殆ど同時。二人はそう、浮かんだ疑問をそのままに、独り言のように口にした。
急ぎもせず、立ち止まりもせず、ただ、前へ。それの方へ。そうして、すぐに辿り着く。
二人が足を止めた。二人の数メートル先は闇。姿はない。しかし、立ち止まった。開けておくべき距離を鑑みての、察知しての、それは二人の判断だった。
ゥウオンン――
二人のいる辺り外側を、波が、通り過ぎた。青白い揺らぎのような光が、もうすっかり暗くなっていて数メートル先までしか見えなくなっていた二人に、その先にあるものを見せた。
離れて遠く。巨大な何か。この通路の先。繋がっている。それは、建造物。それは、巨大な、何か。暫し、垣間見た遠望は、無意識に防衛的に抑制されていた二人の心の琴線を、確かに刺激した。
それに少し遅れて、遅れて、
ゴォンンンンン――
低い音が、響いてきた。それに乗って、
「目を瞑るには、惜しい光景。そうは、思わないか?」
聞こえた声。低く、揺らいで聞こえる声。
「よく、見ておくべきだ。それはお前たちが安全に見ることを許された、最後の絶景。奇は無いが、荘厳ではある」
声の主は、二人を明確に捉えている。
少年たちは構えた。圧を以て、威を以て。水面を潜ってからのあらゆる散々故に、二人のその切り替えは、迅速かつ、鋭かった。
焦りも力みも怯えもない、それは満点の臨戦態勢だった。
二人の数メートル先の闇が揺らぐように消え、それは姿を現した。それは一人の男だった。別に屈強そうな感じではなく、背丈はあるが、華奢な感じだった。顔は細長く、髪は頭頂部のとさかのような赤い髪しかなく、顔色は今にも倒れそうに見えるほどに青白く透き通っていた。おまけに武器の類も持っておらず、こちらに敵意も圧も振るってきてはいない。声の抑揚の無さも相まって、慇懃無礼な、役人といった風。
しかし、それが口にした言葉は無味無臭とはとても言い難かった。
「この先には何も無い。ただ、あるのは妄念だけだ。ただ、通り過ぎればいい。突き抜ければよい。上か下か、何れかへ。望む一方を選ぶといい。妄念の誘いを振り切り、辿り付くことができたのならば。その程度の重みは持ち併せているに見える、が。何れにせよ、私の判断するところではない。所詮、この身今は唯の番兵。畏怖する必要など無いのだ」
二人を見ていない。前に立っているのに、その言葉は、二人に向けられているとは言い難く、捉えどころなく、雰囲気だけが意味深で。
場が、空気が、重く重く、二人は感じてきた。圧しても圧しても意味がない。前にいるそれにはまるで実体が無いかのように。だというのに気配はある。強い気配だ。強い命の気配。モンスターフィッシュのうち、脅威に値するクラスだと二人が断ずる段階のそれと同じくらいの。これまで海で感じたもののどれとも、遠く離れていて、しかし、遠大で、輪郭が捉えられない。
「ここまでこれたのだから。だからこそ、もはや、私が試すまでもない」
それはまるで、目の前にいるのに、いない、かのよう。どこまでも実体あるように見える、霞。
二人はいつの間にか、汗ばんだ手を握り、後ろに隠し気味にしていた。
(何や、これ……。うっ……、きもち、わるい……。巨大な何かに……包まれ、とる)
少年が感じていたのは、何かの中にいるような感覚。包まれる感覚。そしてそれは、恐怖や焦りではなく、得体のしれない気持ち悪さを少年に訳も分からず抱かせていた。
(冷たい……。むわっとするわ……。誰かの冷たい手になぞられてる、みたい……。でも、何も見えないし、服の下が手の形にどころか、膨らんできたりもしない。不快だけれど、やらしさや悪意は、感じ、ないわね……)
リールが感じていたのは、うっすらと、服の下にまで入り込んだ実体の薄い何かに包まれ、触れられ、なぞられ、そんな感覚。しかし、それに危険もやらしさも、それどころか悪意すら感じなかった。しかし、緊張はしていた。リールにはその感覚に少しだけ、憶えがあった。
そのものというより、それに少しばかり、近い、もの。見られる感覚。観察される感覚。父親が自身を偶に、そういう風にじっくりじっくり、ただ、じっと、見透かすように、心を覗かれるように、見ていたことを思い出す。リールの父親は、それをある日疑問に思った彼女にこう一言で説明した。それをリールは思い出す。
(確か、そう……。『観察、だよ』)
父親のそのときの声が、リールの脳裏に鮮明に浮かんだ。
少年の方がより余裕がなく、リールの方がなぜか余裕があった理由はそれだった。近いものを知っているか知らないか。経験しているかしていないかだけの違い。しかし、それはとてもとても大きな違い。
二人の手からしたたる汗の流れる速度の差がそれを如実に表している。
少年の手からは、流れ落ちるグラスの水のように。リールの手からは、滴り落ちる水の粒のように。
ぽとり、ぽとり、ぽとぽとぽと――
ぽとっ、ぽとっ、――
何れにせよ、二人とも、同じように、感じていた。目に見えない何かが、自分たちを、包み込むようにまとわりつき、それらが、自分たちの体表を這っているような感覚を。
リールは、ふと、少年の方に目を向けた。顔を動かすことなく、目の端で、少年を、見た。その顔色には、うっすら不安が浮かんでいるように見えた。明らかに気分が悪いかのように、青白くなりかけていた。震え出してはいないが、唇は青紫色に染まり始めていた。そして、後ろにやった手で、少年の後ろ手を掴みにいった。
後ろを見向きもしなかったのに、リールの手は、空振ることなく、少年の手首を優しく、握って、下へへするりと這うように進んでいって、きゅっ、と握った。言葉無く。
少年の溢れ出していた汗は、滝の勢いから、小粒の滴下にびたりと変わる。
「除菌は終いだ。行くが善い」
その声が余韻を安息を、妨げた。しかし、先ほどまでの気持ち悪さは場からすっと消えていた。
「ついでの余興は――愉しめ……はしなかった、か。ならば、一つ。上へ戻るならば、檻の謎は、解けているか?」
それはこれまでと違い、明らかに分かりやすく、二人に向けてそう問いかける。
そして、二人から背を向けるように踵を翻し、
「未だ未だ青々しい。熟れには遥か程遠い。しかししかし、だからこそ、実り甲斐はあるであろう」
人間の老人の声で鼻歌交じりにフンフンフン、と、一人愉快に、先の闇へと消えていった。
 




