---122/XXX--- 一本道
二人は、無言で、互いの方を見た。互いが互いの顔に、書いてある言葉を確認し合った。
そんなもの、今の今まで無かった。唐突に現れた、遠くの、しかし確かに魚たちに視線を移す前には決してそんものは無かった、と。
二人は、ゆっくりと再び前方を見た。
小さな岩が、地面から聳えているように見える。遠さと薄暗さ相まって、それは、影のように黒々しくも見える。それでも、二人の確かな視力が、その表面に僅かに浮かぶ、無機質な岩の質感を、見落とすことはなかった。
それよりも――気になったのは、それの形だった。微かに、岩のようなそれが、動いたように見えた。遠くから見つめて、毛先一本程の幅程度な、微か。
二人は、今度は見合わせることはしなかった。同時に、動いた。動き出した。ただ、前へ。その方向へ。海中の回廊を、その用意された一本道に抗うことなく、進み、そして――
「止まれ」
そう、この数メートルの距離に近づくまで、確かに茶黒色の、1メートル四方の石に、声を投げかけられて、二人は足を止めた。
二人に驚きは無かった。
遠近感を、より近距離だと外すとしても、より遠距離だと外すとしても、それの大きさは不可解だったから。それに、唐突にこんな場所に、進行方向、進行経路途中に、不意に聳えるように置かれたかのようなそれが、何もないだなんてことはないと、それそのものから、モンスターフィシュやそれに類する、それどころか、それ未満でも微かな気配すら、しなかったとしても、そういうことはあるかも知れないと二人は崩れなかった。
それに、ここに至るまでの、海底の海岸なんて矛盾に踏み入れてからの、気狂う状況、初めての、抗えない、運に任せた、運に救われたかのような――どうして死んでいないのか分からないような自分たちの不手際と、それに見合わない、まるで、死なないように手加減されたかのような、弄ばれたかのような――だからこそ、二人の感情の揺れ幅はとてもとても小さかった。
そして、そういうとき、彼らのような、冒険家、開拓者、先駆者といった類に酷似した、本当の意味でモンスターフィッシャーと言える人種は、恐ろしいくらいに動じない。
前人未踏の未知との遭遇による歓喜で浮き足立ったとしても、絶対絶命の絶望に包まれて体も心も砕けそうになったとしても、彼らの心の奥、芯の状態は、変わらない。
時間は確かに経過した。ひと段落した。とはいえ、あれだけ揺さぶられて、取り返しのつかない損失も負った。それでも、彼らは自らの選択に揺らがない。
震えることも、身構えることもない。
逃避するように達観する訳でもなく、ただ、観察するように、無表情に、しかし、しっかりと、見ている。凝視に思えるほどしっかりと。しかし、視野も視界もぐるりと広く。
それの前で、距離を変えず、挙動があればすぐ動ける状態を保ちつつ、それの正体と意味と、垣間見える設置者の意図を思索する。
油断から足を踏み外すことも、絶対に外せない一撃を外すことも、共に彼らは決してやらない。詰まない。終わらない。
心の根っこの性質と運。どのどちらにも恵まれることこそが、モンスターフィッシャーとしての才能だ。彼らが今死んでいない理由だ。
二人は、間違えない。
相対するそれは明らかに人間でなく、意思らしき揺れはなく、作為的に設置された、何か。人の形を象った、しかし、せいぜい人の形というシンボル程度にしか人に寄せられていない、目も鼻も口もない、原始的な石の人形のような何か。
(……。門番)
(案内人、ね……)
「どうやったら、終わる? 手間が掛かり過ぎている。どうしてそこまでして、俺らを、試す?」
少年はそう、独り言のように言葉にした。目の前の高さ2メートル程度の聳え立つ岩の人形に向けた訳でもなく、隣のリールに向けた訳でもない。
「次で最後よ」
何故か、リールが答えた。しかし、少年は反応しない。それが自分に向けられた訳ではないことは分かっている。それにもう答えは見えている。
互いに同じ結論を抱いているだろうことは分かっていた。しかし、だからどうするのか。それが二人の間できっと少し違うのだと、二人共に気づいていたからこそ、少年は口をしっかりと閉じて、リールにここは任せることにした。
「それ位は分かるわ。けれど、また翻えされても困るの。だから、誓って。これで最後。どこから見ているどういう誰だかなんて興味は無いわ。けれど、窮鼠猫を噛む。不整合な行動。更に奥に、他者の思惑。貴方は私たちをここで終わらせてはならないのだから。期待通り見込み外れなんて関係無しに試し終える、という形で終わらないといけないから」
そう言って、リールは、口を閉じた。
ただ、真っすぐ前を見て、隣の少年の手を、すっと握った。
選択に、取った手段に迷いはない。ただ、取る選択が決まっていたとしても、その後に訪れる結果こそが、怖い。自分だけでなら、自己責任で完結する。しかし、隣の少年が、となれば――
ぎゅうう……。
握る音が、頼りなく響いた。
リールの心は綻んでいた。確かに芯は通っている。けれど、その外縁部から中心の周辺部は悉くすかすかに崩れていた。辛うじて、保っていただけだった。しかし、保っている。辛うじてでも保っている。それは、保っていないこととは、天と地ほど違う。
「俺それは思いつかんかったわ。いや……ちゃうな。それは退けてたんや。怖くて」
冷たく冷たく熱を失っていた少年のテンションに熱が灯った。リール程ではないが、少年にだってそう心に余力は無いのだから。だからリールにそんな風に言って、掴まれた手をそのままに、歩き出す。リールの手を引く。目の前の岩の人形を通じて、観測者が答えを返すのを待つことなく。
「……」
リールは不安を浮かべ、俯くように、しかし少年に従うように、その手を掴んだまま、ついて歩く。
「そんなんこそドツボや。最悪やない意味を活かさんと。一人やないんや。一人や」
リールの方を見ず、前を見たまま、少年は、独り言かリールに向けたか岩の人形越しの誰かに向けて言ったのか定かではないが、そう言って、この場での足踏みを終わりにするといわんばかりに、
「前に進む以外に無いんやから。そうやなかったら、死んでるんと同じや。こんな場所やから尚更やなぁ。深い水の底、腐らんだけで、生きたように死んでなんて、俺ら、考えられへんわ」
岩の人形の向こう。薄暗く、見えない先の遠く遠くを見通すように、少年は口にした。そうして、隣にゆっくりと、抱き着いて、
ぎしっ、ぎゅぅぅ。
そのまま共に、前へ。
素通りするように岩の人形の左を抜けていった。
ゴゴ、ガララン!
背後離れて、壊れ崩れる音がしたが、二人はそれに反応すらせず、進んでも進んでも薄暗い、海の中の回廊を進んでいったのだった。




