第三話 船出
「皆さんお世話になりました。家族全員失って路頭に暮れていた私は皆様の支えによって今日まで生きてこれました。これからも、そのことはきっと忘れません。」
村の港。船の前。少年は嘯く。思ってもない言葉を、作り笑顔で。丁寧に、礼儀正しく、淡々と述べる。
一見完璧な演技であったが、その目の奥に光はなかった。村人たちの仕打ち。少年がそれを忘れられるはずはない。
少年と男は、村人たちの前で別れの挨拶をしている。男はそれを直視できない。子どもが、このようなことをできるようになるのは悲しいことなのだから。
自身の気持ちを抑え付け、笑顔の仮面を被ってその場をやり過ごす少年を直視できなくなり、男はそっと下を向いた。
(これは儀式や。これをやることで、ここのことをばっさり切るんや。で、俺は今日から本当の意味で釣り人になるんや!)
しかし、少年の目からは涙が溢れる。何故か涙が止まらない。歯を食いしばる。それでも彼は前を向く。村人たちの方を向く。
……思い出。少年には思い出があった。砂浜で両親と走り回った記憶。家での祖父母の大物自慢。初めて大物が出る岩場に連れて行ってもらった日のこと。
村人のことは心に触らなくても、土地と思い出は楔となっていた。だから今日まで少年は村に居続けた。
(俺、ここが好きやったんやな……。)
少年の目から毒気が抜ける。
少年が別れの言葉を述べた後、一人の老人が前へ出てきた。腰が曲がり、木の杖をつく、痩せた老人。この村の村長である。
「わしらから、お前への門出の品じゃ。これを。お前が持つべきものじゃ。」
村長は、少年をしっかり見据えてそれを渡す。村長が渡したもの、それは、もうあるはずがない品だった。
「これは……、モンスターフィッシュ大典。あのときに売り払ったんじゃあ……。」
少年は激しく動揺した。信じられないものを見たのだから。
「いや、あのときに売ったのは村に蓄えてあった宝石じゃ。それをお前の両親から……、売ってくれと頼まれたが、売らずに隠し持っておったんじゃ……。」
村長は、後ろめたそうに、少年から少し目を逸らす。
「お前のところの爺さん婆さんは、とんでもない量の雑魚を毎日釣って村に納めていたんじゃ。」
少年はそのことを知らなかった。彼の祖父母は自由気ままでそのような素振り、仕事としての釣りをする素振りなど一切見せなかったからだ。
ただ、今はそのことに対する驚きは怒りで塗り潰されている。
(爺ちゃん婆ちゃんそんなことまでしてたのに見捨てられたんかい……。)
「だから、誰も大物狩りばかりしてても咎めんかった。食料を安定してたくさん取って来てくれ、わしらから腹を空かす心配を取り除いてくれていたからのう。」
(こいつら、爺ちゃん婆ちゃんを何やと思っとたんや。食料運んでくる奴隷とでも思っとたんかいなっ……。)
少年の目から光がどんどん消えていく、先ほどまでは光を放っていたというのに。
「感謝はしておった。じゃがのう、それがいつしか当たり前になって、どれだけいいことか、ワシや村人は忘れておった。」
村長の顔からは後悔の念が見て取れる。少年は唇を噛み締める。
「で、あの日が来たのじゃ。お前の爺さんと婆さんを誰も助けなんだ。わしは……。」
一瞬言い淀むが、村長は再び口を動かす。
「もっと食料を取ってきて寄越せと思っとったんじゃ。今の時代遊んでるやつなんて誰が助けるかとな。」
少年は血が滲み出した唇を噛み締めて、ぐちゃぐちゃになった顔で村長をにらみつける。その目は黒かった。どこまでも深い漆黒の目。黒目。光はない。
村長は覚悟を決める。少年に更に恨まれる覚悟を。目を閉じる。開ける。そして、淡々と冷静に、再び語り始めた。
「その次の日、お前の両親がワシの家に訪ねてきたんじゃ。いちゃもんつけに来おったなと思ったら、その本を渡してきてのう、それ売ってお金に換えていいから魚渡す量が減っても許してくれと頼み込んできたのじゃ。」
「なんとなくわしはそれを家に置いておくことにした。それからしばらくして、一年前のあれが起こったのじゃ。」
それは、少年が一人ぼっちになった日である。少年の涙はもう止まらない。
「一週間二人ともボウズなんて信じられんかった。お前の両親は腕が立つ釣り人じゃった。だから、嘘をついていると思ったのじゃ。あの雑魚よく釣れる海岸なら、釣りほぼやったことない子どもたちでも釣れるからのう。」
少年は拳を強く握る。
(嘘つき呼ばわり、かよ……。)
「だから、魚を隠したと思って、村人総出で殴って蹴り続けてたら、死んだんじゃ。」
少年はまだ堪えている、まだ。唇だけではなく、握った拳からも血が滴り落ちていた。眉間に深い皺が浮かび上がる。
村長は少年の顔を直視しようとはしない。悔いるようにただ続きを語るのみ。
「わしらは、その後、魚を取るために海岸で釣りをしてみたが、釣れなかったんじゃ。お前の両親は言い訳一つしなかったが、どうしようもなかったのじゃ。それを分かっていたから、ただ無抵抗にやられてたんじゃろう……。」
村人たちの余りに身勝手な理屈。少年は、こうして、家族全員を失うこととなったのだ。
「わしらは、自分たちの罪に気づいた。これまでが良すぎたんじゃ。それなのに欲張って、疑って、恨んで、お前の家族を奪ってしまった……。本当にすまんかった……。」
少年は、知っている。よく知っている。相手がどれだけ謝ろうが、相手がどれだけ悔いようが、殺された人間は決して戻ってこない。双方に負の感情しか残らない。
少年には村長の意図が分からなかった。なぜ、今更こんなことを掘り返すのか。もうどうしようもない。戻れないのだから。
少年は、虚無から戻り、再び悲しみに囚われつつもその意図を考える。が、やはり分からない。
少年の目からはもう涙は出ない。顔から生気が抜ける。なんとか立ってはいるが。
「お前が釣った魚を村で分けることを強要して、本当は釣り道具はただで渡して釣ってきてくれとお願いするものなのに、お前の食べる分の魚まで取ってすまんかった……。」
(もう止めてくれや……。)
「わしらが悪いんじゃ……。さらに、今回また、ひどいことをしようとしてたのじゃ。お前が島から出ないように、船が来ている間の港の監視をな……。」
(俺のこととかはどうでもええんや……。)
「この男に言われて、わしらがどんだけひどいことをしてきたか改めて分かった……」
(頼むから、頼むから、もう、……。)
「お前の家は残しておく。ワシらに会わんでもいいから、戻ってきたいときは戻ってこい。それくらいしかもうできることはないからのう……。」
(……、耐えた。終わった。)
少年の心は泥に沈む。両足をつく、両手をつく。しばらく少年は動けなかった。その顔は周囲からは見えない。
やがて立ち上がった少年は、一言も発すことなく船に乗り込み始めた。男も乗り込み、錨と梯子を上げ、船は征く。
それを見送りながら村長は思い出す。それは、心の内で行われる独白であり、誰にも聞いてもらうわけにはいかない懺悔でもあった。
少年の祖父祖母を助けられなかったときのことを。誰も助けないことが分かってて、自分しか動けないと思ったのに飛び込めなかった。
少年の父母を助けられなかったときのことを。少年の家に向かう村人たちを止めようとして、止められなかった。
今度こそはと、動けたはいいが自分の力でできたことは結局なかったのだ。
村長はそれらを深く悔いていたため、残された少年がこれ以上悲しいことにならないように、手を尽くしてきた。
魚を取ってくることにより、この村で少年が生きていけるようにしたが、ただそれだけだった。
しかし、本当に少年のことを考えるなら、ここに縛り付けるのではなく、早く外へ出してやるべきだったのだ。
少年の横に立つ男に言われ、それに気づけたのだ。だからこそ、せめて少年の背中を押すために発破をかけた。何もできなかったのだからせめて背負おうと。
他の村人たちが帰っても、村長だけはまだ見送りを続けていた。どうか幸せになってくれと心に秘めながら。