---110/XXX--- 視界は晴れて靄は去る
「ここには何もないわ。そう。何も。何もなかったの。それに、時間はきっと、いつまでもは止まっていてくれないわ。乗るの。今は、乗るの」
紡ぐ言葉が、思考を動かし始める。自分の為ではない、少年の為の言葉。まわり回って遠回りには自分のための言葉こそが、リール自身の本質に沿っていたのもあり、立ち返るように、自身の本来に、元に、立ち直してゆく。
(そう。私は――ポンちゃんのためだけに、諦められないの)
「きっと相手は私たちを殺したがっていない。少なくとも、その試練というのが、聞きたいことというのが、終わるまでは。だから、乗りましょ。乗って、生き延びて、やりましょ! これだけ色々犠牲を払って、生き延びられなかったら、全部全部、バカみたいじゃないっっ!」
そうして、涙がこぼれた。そのまま、俯いて顔を見せないままの少年を、抱きしめた。届いているって、信じて。確認するように。
(私は私を諦めても、ポンちゃんを諦めるなんて――できない!)
【なれば。成し遂げるといい。島野・リール。釣・一本】
リールは視界に浮かんできた言葉と共に、
ポンッ。
触れた、感じた、確かなものに、安堵した。
「お姉ちゃん。もう、大丈夫や。じゃっ、やろっか。生き延びなあかんし、あの二人の始末、つけたらな―…来るでぇぇっ!」
(頼もしいわね。なんで、ポンちゃんの隣ってこんなにも安心できて心地いいのかしら。ふふ。恋って、素敵ね)
「ええっ! やってやりましょ!」
(乗せれたってわかり切っていても、この気持ちは、私の――本物よ)
ぐるっ、ギッ。
ぐるっ、ザァッ、
二人は並んで振り向いて、構えた。
ザッ、ドドドドドドドド
駆けてきたむきむきシュトーレン。魚人青年は、一瞬呆然としたかと思うと、ギッ、と目に強く光と意思が宿った。細まらない筈の魚眼の黒目が、横長に細まったように見えた。
動き出さないのは、様子見か、考えありきか。
しかし、それよりも二人にとって重要なのは、向かってくるむきむきシュトーレンだ。哀れな夢を見ている。
ズズンッ、ブゥオゥンンンンン!
ズザザ、と少年の側、斜め前方に立ち止まって、バンクアップする。その表面積の急激な増加が発生させて風圧が、
バサバサバサバサバサァァ――
紙片の山を、舞い上がらせる。その量は、視界が、紙片で九割方埋もれるような具合だった。
先ほどまで、紙片の存在が消えてきたことにも、今それらがふわんと現れたことにも、少年もリールも、気にしてはいない。シュトーレンもそれによって視界を奪われていたが、少年たちとは違って関係ない。
(やっぱり、俺がやらな。お姉ちゃんにやらせたく、ないんやな、俺……。そういうことやシュトーレンさん)
少年は、恐らくそこにいて、拳を放とうとしているだろうシュトーレンの方を向いて、そう決意を固める。絶対に自分の方に拳が飛んでくる。そう、確信して。
ガッ。
「っ!」
横から引っ張られる。
グゥオアアンンンンン、ドゴォオオオンンンンンンン!
頬を、強烈な、重々しい風の圧が、掠る。ぐわんぐらん、脳が、揺れる。そんな中聞こえた、地面砕ける音が、それが何であったかを少年に分からせた。
(早い……。お姉ちゃんか。助かった。けど、これは俺の…―)
「一人でやろうとしないでっ!」
そう、リールは引き寄せた少年に至近距離で、想いをそのまま言葉に変えて、叫ぶように訴えた。
ストッ。
それだけで、少年は離され、下される。そうして、背中をポンっ、と優しく押され、振り向いたら、
「シュトーレンの拳は、私がいなして止めるっ! 行って!」
ブゥオゥンン、バサバサバサバサバサバサバサバサ――
叫びと共に、紙片の弾幕は離れ飛んでゆくかのように晴れていった。シュトーレンがめり込んだ拳を引く動作によるものだったということは、その太い太い腕を中心に紙片が渦巻くように引かれ、集まってゆく様子が、どんどん見えるようになっていった。そして、
「うんっ!」
もう、二人の視界を遮るものは、無かった。
少年は元気に返事をし、
タンッ! スタタタタタ――
シュトーレンへ向かって駆け出した。
深海の更に、奥の、奥。
何処か。
闇の帳の中、一人、居る。静かな処だ。暑くもなく寒くもなく、何もない。音はない。ただ、空間だけは広い。それ位だ。
その者はドームの中の出来事を遠見する。そして、感想を浮かべる。それが、その者の役目だから。
ほう、これは。
何度崩しても、同じように、同じ意思を持ち続ける。なら、まぐれではない。奇蹟でもない。必然であり。運否天賦でもない。必然、ということだ。
これが彼らの実力で、なれば、最低限度の資格はある、ということだ。
最低限度。やはりそれが、どれもこれも、真正面からの克服ではない。克己でもない。協力という、弱々しい共依存に依るものだ。人という個体単位での弱さを肯定する前提であれば、それは在り方としては正しいだろう。
しかし――それは、我々の望むところではない。
なら、何故だろうか?
彼らの個体としての強さは十二分だ。彼らを見初めた道具がそれを記録している。空らは十二分に肉体的には嘗ての人の水準を遥かに逸脱している。心も、こうやって、何度崩されても、壊れてしまわず、立ち直ってしまう位には強い。
しかし、それでも、そんな彼らですらも、想定よりも幾分脆い。体の水準からして、その心はより強固で揺るがないものになっている筈だ。不満の根はあるのだろうか?
どうも、心の強度に関しては、水準を満たす者であろうとも、必ずしも人類の未来としてあるべき水準に達しているとは限らぬということらしい。
最初のアレのようにはいかない、か。いや……、アレは成功例とは決して言えぬ。アレは結局のところ、反逆したのだから。嘗ての弱い人類であることをアレは選んだ。愚者になることを選んだ。
永久凪・海人。不老を盟主から授かった直後、理想の果てを体現したその名誉ある授かりの姓を捨てて。
アレを、今も盟主は唯一の成功例と仰る。困ったものだ。
……。保留としよう。より彼らの仔細に、本質に、心の奥底の在り様に迫らねば。……。この近郊で、それなりに相応しい場となると……、第五ビオトーブ、か。
最後の試練を彼らが乗り越えたとして、もしも最後の質問に、正しき、在るべき答えを拒絶した場合の罰を与えるにしても、出口は遠方なあそこは相応しいだろう。
もしも、このドームから脱出できて、そして生きていられる状態を確保できたならば、彼らを第五ビオトーブへ誘うとしよう。
できた、なら、だが。
盟主。やはり貴方は甘過ぎる。相応しき者の選別こそ、何よりも厳密で精密で緻密ちみつで無くては、何もかもが、台無しだ。
そうして、その者は遠見へと戻った。




