---107/XXX--- 偽りの瞳に映る景色
結論から言うと、その瞳は、本物、だった。白く混濁するかのように傷んでいた。作り物ではなく、どう見たって本物だった。引っ張って、すっぽ抜けるような、はめ込まれた他の誰かの目玉、という線も無い。明らかに、この身体に付随した目玉だった。
それよりも問題は――
「……」
「……」
二人の沈黙に、あった。その目線は、目の前のそれにではなく、少年が自身の前へと戻してきた右手指先へと、落ちている。
少年の右手、人差し指と、親指。そこに、二枚の薄い肉片が張り付いている。瞼をこじ開けたとき、プチャッ、とこびりついたのだ。
少年がそれを剥がそうとするそぶりはない。いや、考えはない、と言うべきか。そのままにしているのが、至極当然で、自然なことのように、指先のそれから意識を外すように、二人は同時に、そこに、同じ姿勢のまま、膝を抱えたまま、左目瞼が喪失して左目玉が剥き出しになっているそれに意識を向けた。
剥き出しになったそれの左目が、こちらを覗く。黒茶色の瞳、であったらしいことは僅かに残る色合いから辛うじて分かる。虹彩の外側は、黄色く変色し、その上、少し、でこぼこしていた。腐敗臭はしない。
けれど、それで明らかだ。
死体。
これは、死体。少なくとも、首から上は、剥製でも、人体の継ぎ接ぎでもない、一人の女の死体の頭部、だ。
「……。お姉ちゃん……。捌いて、みいひん……? ……。俺が、やるから……」
少年はそう言いだした。リールの答えを暫く待っても返事は返ってこなかったので、続けて、自分がやるから、とつけ加えた。
リールは何か迷っているらしい。何か言おうとしているが、飲み込んでいることが、唾を飲み込むにしては頻繁な喉のごくん、という動きから分かる。
「……。…………。………………。ちょっと、待って……。ちょっと、確かめたいことがあるから……」
リールはそう言って、死体に手を伸ばす。
すぅぅ、
死体の頭頂部に、リールの右手は伸びてゆき、
ぐにゅっ。
指先は、《・》めり込んだ。まるで、骨なんて無いかのように、そう頭部はへこんだ。中身がぐちゃりと崩れる音もしなかった。
(……。やっぱり、何か……おかしいわ……)
ニュッ。
リールが手を引くと、それは、ゆっくりと、元の形に戻った。
「……」
「……」
そんな様子に、二人は沈黙する。
「……。お姉ちゃんも、もしかして、同じこと、思っとる? これ、ほんまに死体なんか? って?」
「うん。そう。ねぇ、ポンちゃん。見たままか、触った感じか、どっちを信じたらいいと思う?」
「……」
「……」
また、二人揃って、互いが互いの方を向いて沈黙。顔に答えなんて書いてあるわけもなく、分からない、という困惑の表情ばかり。
すぅぅぅぅぅ、
少年の方を見たまま、指先は、下へ。その暫定、死体の腕と膝らしい部位の間へ。滑り込むように、
グニュッ。
掌全体が、めり込んだ。固さも弾力も無いかのように、飲み込まれるように沈み込む。
「……。おかしなこと、ばっかりやな……」
「そうね……」
ぐわん、うわん、にゅっ、うわん、――
リールがそうやって、それの中を、泳がせるように手を動かす。千切れることも、弾けることも、裂けることも、零れることも、無い。
「おかしなことついでにやけどさ、……」
「……。何……?」
リールが返したその反応で、少年は粗方察した。おかしなのは、やはり目の前のこれだけではない。自分が気づくより前に、きっと、リールは何かしら幾つか気づいていたのだろうと。それでも敢えて、言わなかったのだろうと。
「……」
少年は迷った。言い淀んで、再度口は、開かない。
「言って……ちょうだい。じゃなかったら私が言うわ。ちょっと信じられないくらい馬鹿げた考えだけど、きっと、ポンちゃんも似たようなこと、考えてるんだと、思う」
ごくり。
ごくり。
少年が生唾を飲み込むと、そんな少年を見つめたリールの喉元が、ごくり、と動いた。
すっと、少年は、後ろを向いた。視線の先。そこでは、むきむきシュトーレンと、白鯛の若い魚人。もう随分と前から、あの拮抗のまま動いていない。
少年は目を細め、言った。
「あれ、止まってるん、ちゃう……? 二人の足元……。全くどちら側も、あの位置から動いた跡が無い。あの力んで揺れてるんも、あんなずっと一定で、波無いんはおかしいやろ……。……。あの、魚人、多分、あの、爺さん、ちゃうよなぁ……。…………。ねぇ、お姉ちゃん……。揺れ、いつから、収まってた……?」
二人はまた、互いの顔を見合わす。
どうして今の今までそんなことにすら気づかなかったのかと、今度ははっきりと互いの顔に顔に浮かんでいた。
気配に、察知に、優れた、一流のモンスターフィッシャーたる二人が、今の今まで、狐につまされたかのように、振り回されている。そんなことが世界にはいくらでもある、無さそうでいて実のところしばしばあることだと知っている、様々なことに、驚き過ぎて動揺したりなんてことは、まずない二人であったが、今回は、色々ととことんと異常だった。何から何まで、妙にも妙で、翻弄されるがままに、認識は後の祭りに、後手に回る。
「……。気のせい、じゃなかっ…―っ! ……。…………。………………」
先に口を開いたのはリールで、やっと反応を返そうとしたところで、突如、途切れたように、沈黙する。
「リールお姉ちゃん?」
少年が声を掛けても返事はない。
(まさか、お姉ちゃんも、止まってしまったんか……? 馬鹿な……。けど、ありえるんや、ここなら……。なんでもありに、なんでもある……。……)
そうして、
じぃぃ。ドクン。
「……」
じぃぃ、ドクン、ドクン、
「…………」
ドクンドクンドクンドクン、じぃぃぃぃぃ、
「…………………」
ちょぷっ!
その突然の物音に少年はぴくりと反応した。
「っ!」
リールの右手が、目の前をすっと、通り過ぎていった。無言のままの動きだった。あの死体に埋もれさせていた手だった。それは、聞こえた物音に反して、全く湿ってなんていなかった。
なら? と、目線を、それがやってきた方向へと目線を下げて、
「……っ! は……! ………………」
目を見開いた少年は、そのまま、目をぴくつかせながら、また、沈黙した。
偽りは、気づきと共に剥がれ落ち、その下にあったものが姿を見せる。
目の前にあった、手触りと見掛けが符合しないそれは、女の首から下が、赤黒半透明なスライム状の、大人一人分位の細長い塊、だった。
「……」
「……」
沈黙。沈黙に次ぐ沈黙。追いついた筈の認識は、またも置いてゆかれる。なんでもありで、なんでも起こり過ぎて、予想はできず、起こるままに振り回される。
ぐにょぉぉ、コトッ。
スライム状のそれは、崩れるように、その形を失っていって、地面に薄く、水溜りでも形作るかのびた。首付きな頭は、その外側へと、地面に抜け落ちた。
そんなになった半固体の中を、まるで、靄が晴れるかのように、それを半透明たらしめていた赤黒い濁りがその中を、泳ぐかのように浮かび上がって、分裂するように引いてゆくように、ミミズのようにちぎれ別れて、蠢き、また千切れ、小さく別れて、離れていって、小さく小さくいくつもの塊ごとにまとまっていき、形に、化ける。化けて並んだ、左から右へ意味を成す、続く、続く、文の列。
「こんなん……、馬鹿げてる……。馬鹿にしてる……。演技がかってわざとらしくて、作為的で、弄ばれとういみたいで……。……」
少年の嘆きに、リールはただ、落ち込むばかり。
「ポンちゃん……」
励ますことも、慰めることもできない。自分だって同じ気持ちだから。だからこそ分かる。何を言ったって、何をしたって、このやるせなさは、振り払えない。
地に膝付き、かくんと手、付き、少年は叫ぶ。
「くっ……。……。ぅぅ……。…………。………………、何やっちゅうねんんんんんんんんんんっっ!」
やるせなく、遠吠えるしかできない。




