---102/XXX--- 獣の亡骸、挿された異物 中編
何かが飛んできた方向の巨大な横穴。その先に、間違いなくその男、シュトーレンは、明らかに正気でない、充血して見開いた目で、瞳孔がぐるぐる目の中を泳ぎ回るようにぶれぶれな目をして、存在していた。
そんな目の逝った具合とは違って、その体は、しっかりと地面を踏みしめて、強々とした圧と姿勢で仁王立っている。
皮膚が弾けて、中の肉や油が垂れて、その下から筋肉が隆起し、溢れそうになって、蠢いている、益々化け物染みて、益々化け物染みた、もうどう足掻いても戻れない、元通りにならない、様子を、まじまじと二人に見せつけて。
ゴォオオオオオオオオオオ――
場所全体は変わらず揺れている。
立てないリール。だから少年は立ち上がる。相手は待っている。待ち構えている。飛んで行った何かの先よりも、飛んできた先に立つそれこそが、脅威。
事態の整理はやめた。考え込むのはやめた。反省も後にした。
(けど……。もう、俺は、決めたんや。あんたは、犠牲にするって)
グググググ、スッ、ギュゥウウウウ。
倣うように、仁王立ち。握り拳を作って、構え、立つ。今すぐのたうちまわりたくなるくらいに腹の痛みは強くなってきていたが、そんなしょうもないことで後悔したくはなかったから。
守りたいものが、取りこぼす訳にはいかないものが、自分の身以上に大切な、自分には絶対にそんなものはないのだと嘗て諦めていたものが、そこにあるのだ。
なら、何が何でもそれを守りきろうとできなければ、嘘だ。たとえ、力及ばずとも、一秒でも、長く。永らえさせたい。守るべきものを。
一瞬、ちらり。足元後ろのリールを見た。
目が合う。
『お願い』
そう、言われたような気がした。きっと、色々な意味が込められている。考え得る限りのその全てを受け取ったつもりで――けれど、返事はしない。自身の口からは言葉は出ないのだから。だから、後は、行動で―…ゴォオオオオゥウンンンンンンン、ジャバァアアアアアアアアアアアアーーザァアアアアアアアアアアアア――!
離れて背後。そこからそれは、聞こえた。
思わず、振り向く。
ビュゥウウウウウウ――ジャァァァァァァァァ――
砂糖のように甘い匂いの輝く緑色の液体で満たされた棺桶が、そこには落ちてきて刺さっていた。その地色は、鐵色で。その蓋と櫃の隙間からは、液体が流れ出していた。
蓋は半透明。中身は液体で満たされていて、中に何か影が見えるから、何か入っているのだろうということは容易に想定できる。
それが棺桶であると思ったのは、その形と、その大きさ厚さ。そして、零れだした液体に乗った、死臭、だった。
それは、妙に、獣臭かった。
それに向けて、歩いていこうとして、少年は、はっ、と我にかえった。そんなことをしている暇はない、と。
そもそものところ、どう考えても、それは致命的な隙であり、どう考えても、手遅れであったが、実際はそうではなかった。
「……」
(動か、ない……? 何で、や? 動けない、のか? それとも、この、液体、か?)
ごくり。
生唾を飲み込んだ少年。
ゴォオオオオオオオオオオ――
轟音は変わらず鳴り響いている。
何もまだ、解決していない。
だからこそ、
ガッ!
動いた。
(もう、ミスなんて、できへん。今ここで、シュトーレンさんは、片付ける。俺のせいやから。俺の責任や。俺の仕事や。俺が、やらんと、あかんのやぁああああああ!)
スタタタタタタ――
弧を描くように走る。エレベーターの前。拾い上げる。中身の入った、再生用の薬剤の注射器一つ。そして、義手義足の中身が入った筒の一本。
蛸の足のような形状の繊維が何本も走り、蠢いている。青紫の液体に浸されたそれの封を開け、躊躇せず、打ち込んだ。
パリリリ、ボゴゴゴゴゴ、ニュゥウウウウウウウウウウ――、ジャスザスザスッ!
膨れ上がった、蛸足な束なそれは、その根元から草の根のような網目状の針のような細い繊維を出し、少年がそれを握っていた左腕に刺さり、浸食するように癒着してゆく。
それでも少年は止まらない。腹に先ほど受けた痛みとは比べ物にならない痛みが走る。思わず絶叫しそうになりつつも、覚悟は決まっていて、だからこそ、耐えきった。そして、
「ぐぅぅ……、……。ぅおおおおおおおおおおお!」
勢いを増して走り出す。
左腕を、生えた蛸足触手数本もろとも、振り回すように、鞭打たせるように、放った。
相手は人外。自身は人のままの上、満身創痍。なら――と、少年は躊躇なくそうした。後を考えずに。
今このときを生き延びなくては、先なんて、無いのだから。
ブゥオフゥウウウウウンンンンン――、バチィィグゥゴォオオンンンン!
鋼鉄の地面を浅く砕いただけ。外した。避けられた。そこに、あの巨体の姿は無い。
「っ!」
(はっ……? ど、何処やぁああああっ!)
すぐさま見つかる。自分の後ろ側。
ダドドドドドドド――
そのまま、リールの方へ向かっていっているように見えた。だから、
「……くぅうううぅっ、ぅおおおおおおおおおお――」
ブゥゥオゥンンンン――、ゥオゥンン、ドサァァァァ……。
横薙ぎの一撃は空を切る。
「あっ……。ぁ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"――!」
が、
届かない。届かないくらい既に、離れていた。リールに当たらないようにするために抑えたのが、躊躇したのが、早さも長さも、届かなかった原因だった。それが分かっているからこそ、少年は、嗚咽を叫ぶ。
ダドドドドドドドド――
「っ! すぅ……? ぅ"ぅ"ぅ"ぅ"……」
(素通り、やと……? っ……な、何や、この、臭い……。甘臭い。甘いけど、臭い。痛臭い。ぐあぅぐぅぅぅ……)
思わず、咽る。あれだけ傷ついても、痛みつけられても意識なんて飛ばなかったのに、ここにきて、本当に、意識がぶっ飛びそうになる。
リールも同じであるようで、鼻を抑えて、猛烈に顔色を悪くしている。他の可能性は、味わったその臭いから、無いと判断していた。
それよりも――
(あれは……! 何、や……?)
先ほどの棺桶、縦に刺さった棺桶、中の液体が抜けて、その中に入っていた中身に、顔はこわばっていた。
二本の、上向きに湾曲した、角。いや、牙。口元らしき、窪みからそれは生えている。半ば崩れたような緑色の、崩れた肉の塊。そこに、弾力を失ったようなぶわんとどろんとしたぴんとした生え揃った毛という銀面付きの皮が被さったかのような。
緑色。半ば液状になって、腐っているのは明らかで。なら、この甘い匂いは、保存料だ。なら、この、意識すら手放しそうな程の臭いは、腐敗臭だ。どれだけ混ざっていて、どっちが強勢ということもなく――、保存されつつ、傷んでゆき続けていたのだろう。
辛うじて背中だろうと分かる辺りからは、何か、やけに強く輝く、蛍光色の緑色のきのこのようなものが、幾重にも覆いかぶさって生えている。傘の大きくて円形な、斑点も何もない、さらっとしたような見かけのキノコだった。キノコなのに。
(モンスターフィッシュ、ちゃう……。ただの、獣……? 何でこんなもんを、こんな大事に……)




