---100/XXX--- 混濁死角
「ほうれ。歩け歩け」
と、支配した少年の体を駆動させる。
ザスッ、ミシッ、メキッ、ザスッ、ザスッ、
そうやってゆっくりと。損傷の具合を、操作の感覚で確かめていた。念の為に。実は微細な部分の骨折や、分かりずらい体の深部の深刻な炎症といったものが発生していた、なんてことは無いかという確認であった。
「動かせば動かす程、驚かさせる。この齢でこの仕上がりは驚異的であるな。成長期の子供としては、骨格の強度がおかしいわ、筋肉の発達と密度が、鍛えられた徒手格闘の闘士のそれだ。それは、小僧だけでなく、片足立ちを続けられているあの女もそうではあるが。あれも未だ、少女と言っても差し支えない程度の齢であろうからなぁ。だからこそ両方手中に収めたい。……。欲張って……、何が悪い。なぁ、ベリー」
一瞬遠い目をして、次の瞬間には、今を見据える。
ザスッ、ザスッ、トッ。
少年の体が、ドームの中へ、出た。そんな少年の体とリールの体の距離は5メートル程度。頃合いであった。
「ゆくぞ。ゆくぞ、ゆくぞ。ふっ、ゆけえぃぃっ!」
壮年の男は、掛け声を上げた。
グゥン、フワッ、グガァゥンンンンン、ブゥオゥゥゥゥゥゥゥゥ――
倒れ込むような姿勢からの、片足ではあるが、強烈な地面の蹴り出し。飛ぶ。前方へ。地面から数十センチ浮いて、平行に。
ゼロコンマ数秒。少し遅れて、少年は、
スッ、タタタタタタタタタタタタタタ――、ゥオゥンンンンンンン――
駆ける。姿勢を少しばかり低くして、右肘を突き出すように。体当たりでもかますような姿勢で、疾走する。
狙いは、互いで互いの腹を突かせること。少年のタックルの切っ先と、リールの左手義手の拳はぶつけない。交差させ、勢いを殺すことなくぶち当てて、終いにするのだ。
「ふはははは、ふはははははは――」
が、
「――はははははは…―、……、は……? ……」
老人改め壮年の男の顔色が変わる。先ほどまでの調子の良い、上から目線の愉悦を浮かべた嘲笑いなど、嘘のように、その顔からは表情は消え、目の中に、瞳孔がぐわんと広がる。開ききった魚の目そのもののように。
今や、少年やリールの視力と反応速度に同調したその目だからこそ、恨めしいことに、あってはならないものを、しっかりと捉えてしまった。
ドーム中央。天井の罅割れ。それが一つの音と共にしっかりとした断裂になり、広がり、砕け、輝く緑色の液体が、滴って、溢れんばかりに、流れ出し、滝のように、流れ落ちる。
ポタッ、ググ、ピキン、ザァアアアアアアアアアアアア――
そして、もう――壮年の男はそれを阻止するには間に合わない。
「ふざけるなぁああああああ! 運命いぃいいいいいいいいいいっっっっ!」
自分を翻弄し続けてきた目に見えない形の不可抗力の名前を、恨めしく叫びながら、動かずにはいられなかった。
壮年の男は、二人の操り糸の手繰り糸を放棄して、
バカンッ、ガコン。
箱の上蓋を蹴り開けて、外に飛び出る。
スゥゥ、スタッ。スタタタタタタタ――
「くそう、くそうぅ、くそぉぉうううううううっっ! ここまできて――こんな終わり、許容できるかぁあああああああああ!」
そして、血色の引いた、壮年の男、二足歩行の、魚体混じりたるその真っ白な顔に、筋が、浮かび始める。
ビキッ、ビキビキッ、ブチッ、ブゥクッ、ビッ、ビキィィィ、
無秩序に入り乱れる、網目のように、それは浮かび上がりながら、ところどころ切れ、切れた血管部を中心に水疱のように膨らみ、一瞬で5センチ大の玉のようになったかと思うと、弾け、
ビチン、バチンッ、ピチャッ、ジュゥウウウウウ。
透明な色をした液体を飛び散らせた。それらは、焼けるような音を立てて蒸発した。
もう壮年の男には、中の様子なんて分からない。操作を手放した二人のことなど、どうでもよかった。なぜなら、直前に見たその光景は、行動の意味を、欲張りの意味を悉く台無しにする。無為にする。ふいにする。光景を確認する時間すら惜しかった。
それは、どう転んでも、事態は壮年の男にとって、想定外の最悪。今の今になって、浮かんだ、更新された、最悪。だからこそ、壮年の男は、これまでになく取り乱していた。
「儂の最後の希望に、触れるなぁああああああああああああ!」
駆ける男の叫びに、呼応するかのように、収縮は最終段階へ入る。
ギギギギギギギギギギギギギ、メキメキ、ビキビキビキ、ギギギギギゴガギギギギ、
透明な箱を、外から押し付けるように、壁面にめり込まるようにドーム外壁は縮む。開いた面を横に向けて転がり、外壁と建物壁面に挟まれた透明な箱に壮年の男は飛び入って、
「させんぞぉぉお、絶っ…―」
ブゴォオオオオオオオオンンンンンン!
壮年の男の視界は、意識は、吹き飛んだ。横から不意に訪れた、黒く聳え立つ塊のような何かが、見えたような気が―…
ゴォオオオオオオオ、ボゴォオンンンンンガラララララアアアアアアアアア――、ゴォオオオオオオオオオオオオオ――
建物の壁面は、砕けるように、半壊した。
そうして――役者が、揃う。




