---091/XXX--- 凝視とねじれの疑
「お……、お姉ちゃん……?」
少年は、恐る、恐る、そう、声にした。
リールは返事をしない。振り返らない。しかし、動きは、止まっている。だから、反応していない訳では無いような気がしていた。
しかし、怖かった。酷く、怖かった。
そうやって、肩を触れるべきではなかった、と思う。近づくべきでなかった、と思う。何かしらの反応が、動きが、返ってくるまで待つべきだった、と思う。
ドクン、ドクン、ドクン、――
静まり返った中、嫌に響く自身の心臓の音。
ジワァ、ポトポトポト――
ぽとり、だなんてやわなものではなく、急に、流れ落ち始めた汗。どんなに恐怖しても、そんな風に、滝のように、不意に、溢れてくる汗だなんて、一度たりとも身に覚えが無かった。
(何なんや、これ……。俺は、何をこんなに、こわがってるんや……。リールお姉ちゃん、やろう……? 目の前におるんは……。俺、どうなって、しもてるんや……)
訳が分からない。
震えなんて、まるでない。恐怖するのとも、何か、違うような気がしてきていた。自分で自分が今、どうしてこんなになっているのか、分からなくなりつつあった。
それでも、これは、恐怖だった。少年はそう、断定する他、無かった。自分がそうなったのは、今のこのリールを見てからであって――動け、なくなっていた。
ボタボタボタボタ――
目が、眩んでくる。
ぐらり、ぐらり、ぐにゃり。ぐにょぉぉ。
ドォクゥン、ドクン、ドォォクゥンン、ドォクゥゥンンンン、――
間延びする心音と共に、決して息苦しくもないのに、視界は、歪む。
目は、開いている。見開いている。激しい動揺に、その理由を知りたくて、大きく、大きく、目を見開いている。
(何なんや……、一体、何なん…―)
「ポンちゃん」
(っ!)
らしくなく、全く抑揚のない声。虚ろな、平べったい声。しかし、そう自分を呼ぶのは、たった一人。目の前のその人物は振り向きもしていないが、間違いなかった。耳を疑うほどに、はっきりと聞こえたそれは、聞き間違えようもなく、リールの、声だった。
「遅かったわね」
続けてそう言われた。恐ろしいくらい殺風景な声で。依然リールは振り向かない。
少年の汗の噴出は、ぴたり、と止まっていた。しかし、汗が噴き出していた直前よりも、より、気配は淀んでいるように感じていた。
「……」
少年は、何も返せなかった。リールが口にした言葉は、その字面通り捉えたら、少年が望んだ返事そのものだというのに。しかし、少年の耳には、その返事はこの上なく不穏な追撃のように聞こえていた。
口は動く。声も出るだろう。そう、分かっていた。しかし、それでも、言葉を発する気には少年はなれなかった。自身が感じた不穏を確信に、間違えの予感を確信に変えるかのように、耳に残る直前のリールの声は、少年の望まないものを補強した。
自分が下へ、リールを置いて向かってしまったのが、取返しのつかない不味いことであったかのように思えてならなかった。
何か、あったのだ。
あの老人が来た、というのではないのは分かっていた。それだと、臭いが残る。魚人が来たとしても同様。
それらは無かったのだと、踏み入れた瞬間は、少しばかり安心した。しかし、すぐさま、違和感に気づいた。
目を離したことが、間違いに思えた。なら、過ちの実態は、何だ? あの、紙の束。そのどれかに、書かれている何か。もうそれしか、思い浮かばなかった。
足は、動きそうだった。前へも、後ろへも。もう、思うが儘だろう。
動けなかったのは、生じた迷いだったのだと知った。やるべきことが決まった途端、異様な自身の感じる知覚は終わったのだから。
なら――確かめなければ。
尋ねるのでは、駄目だ。それでは客観的に事実を見れなくなる。偏向が入ってはいけない。第一印象で、リールが目にしたであろうそれを、見なくては。直観しなくては。
何故、リールがそうなったのか。それが知りたいならば、リールを介さず、それをまず、見て、感想を抱かなければ。
ドクン、
コトッ、
一歩の距離を詰め、それを最後の、勘違いであってくれという想いの区切りとし、少年は退却も、最後の躊躇も捨てた。
ドクン、ドクン――
身を、ゆっくりと、乗り出してゆく。リールが振り返るそぶりは全くない。少年は音を立てず、リールの頭、後ろ、左横から前方へと、
スゥゥゥゥゥゥゥ――
覗き見た。何やらの本の頁が開かれている。
【"檻の理論"】
【それは、何かを閉じ込めるが為の物。それは、何かを、生き永らえさせた儘、封じ込め続ける為が物。監視者は、中の様子を観察する。それは監視であり、愉悦であり、安堵である。一先ず、今この時は、その者を封じ込めているのだという。】
【それが強固な檻であるが故に、監視者は思う。その檻に今囚われているのがそれではなく、自身であるのだとしたら、と。想像せずにはいられない。幻想と、地に足ついた安穏によって、そんなものはほら話だと、目の前のそれに向かって、笑いながら言う。】
【私とお前は隔たれている。決して、届きはしない。私は自由で、お前は呪縛されている。見ろ。見ろ。見ろ。それは全て、お前のせいだ。その檻の中、お前の傍に横たわっている亡骸たちは全て、お前の身勝手の犠牲だ。】
少年は悟った。何が起こったのかを。
(やられたっ……! 俺がおらんときを……。より不安定なあ姉ちゃんを、狙い打ったんや……。あの爺さんは、姿なんて現す必要なんてないんやから……。俺らの前に最初出てきたときだって、そうやったやないか……。あの爺さんは、はっきり見える幻として、俺らの前に、現れた……。なら、今、お姉ちゃんが見てるぶ厚い残り数ページの本は……)




