---087/XXX--- 彼女が為にと疑問に蓋をすることを選んだ
スゥゥ、ギィィ、スゥゥ、ギィィ――
リールの血のべっとりついたエレベーターのケーブルを伝い、降りる少年は考えていた。
(おかしい……。水気が、無い……)
スゥゥ、ギィィ、スゥゥ、ギィィ――
暗く、熱く乾いた空間の中で、食い違いに気づき、考えていた。
リールが自分に嘘をつく筈は無いし、一流のモンスターフィッシャーでもあるのだから、目にしたもの、耳にしたもの、体験したものを、見紛うことなど、ある筈がない。
わざわざ隠す理由なんて思いつかないし、理由があるならそれはそれでいい。信じているのだから。そう。リールになら、騙されても構わない。裏切られても……死ぬほど辛いだろうが、それでも、構わないと少年は覚悟を決めている。それだけは、そこだけは、揺らがない。
リールの結婚式を阻止した後に、誰にも口にせず、心の内に秘めた、覚悟。責任。子供ながら、大それたことをしたのだという、意味は表面上知っていた。この地に降り立つことになって、やったことの罪深さとエゴを知った。
だからこそ、わざと汲まなかった。リールの、行かないで、という気持ちを。優先しなければならないことがある。結果が伴わなければ、無意味になる。終わった後も、彼女が笑っていられるように、自分にできる限り、障害は取り除かなければならない。全部なんて、できない。だから、できることを、間違えず、選んで、優先して、順位をつけて。
分かってもらおうだなんて思わない。理解して貰えるなんてはなから思ってなんていない。
それはきっと、自身の祖父母や父母と同じ種類の覚悟だと、少年は自負していた。だからこそ、今は、やるべきことを、やるだけだ、と。
スゥゥ、ギィィ、スゥゥ、ギィィ――、ギュッ。
(……。何があるか分からん以上、集中して、全力を尽くす、だけ、や)
最下層。そこが目的の階層。それより下は行き止まり。床のような、下方向への行き止まりである。扉の先から感じる気配からも、少年はそう判断した。
尤も、そんな底から扉までは数メートルの高さがあるため、底へ着地しようなんてはしない。ケーブルを掴んでぶら下がったままの少年は、扉の前で止まり、
トッ、ブァン、スタッ。
ケーブルを蹴り出し、扉の前に僅か突き出た、十数センチの足場へと、着地した。
ギギギギギギギギ、スタッ、ゴォゥンン!
こじ開けた扉の先へ飛び込むように足を踏み入れ、越えてきた扉が閉まった後、スッとついた通路の天井に並ぶ電球照明。最初来たときには気づかなかったのか、今になって仕掛けの類が作動して出てきたのか、誰かが備え付けたのか。
しかし、そんなことはどうでもよかった。気にならない位に。
気にすべきは、この湿気と、天井、床、壁にあからさまに残る、水滴の連なった数々の線。その水は、磯の香りを含んではいない。
(上と同じ、ただの水で、沈んで、いた? いや……、沈み切らんと、水が、通っただけ、かもしれん……。分からんことが多過ぎる……)
それに、ここも、上と同じように揺れていない。揺れている筈の下と違って揺れていない。
(戻って、知らせた方が…―いや、尚更や、後にせな。こんなことがあった以上、優先順位は変わったんや。一度戻ったら、もう一度ここに来るっていうのは、もう、無い。正直、先に進んで、何か仕掛けられてたなんていう線ももう、無視できんもんになってもた。本命は、水の罠、やろうか。次点で、魚人を何体か待ち伏せさせとう、ってとこやろうか? ……魚人、あとどれ位残っとおんやろうか? あそこにいたんが何割やったか、やな。……、進むんや、今は。考えるのは、上で、や。もうこれ以上独りよがりにならへんように。見るべきもんを見失わんように……)
どう見ても自分のせいである、シュトーレン関係の失態が強く、浮かんだ。考えずにいるつもりだったのに、ずしり、心にくる……。
(くそっ……)
スタタタタタタタ――
少年は駆け出した。慎重に、ゆっくり、歩いてゆくつもりだったのに、焦り、走り出したのだった。
進行方向の照明が、少年に少し遅れて灯いてゆく。
ギィィィ――
コトッ、コトッ。
「……」
(誰も、おらん。罠も、ない。水が入った形跡も、この部屋には無いみたいや。けど――誰か、入った跡がある)
その中は最初から明かりがついていた。赤み掛かった薄黄色い明かり。だから、部屋の中の物の配置がところどころ動いているのはすぐ分かった。
少年は周囲を見渡した。不安要素が更に増えたのだから、心はざわついている。思考には更に焦りが混じり始める。しかし、鈍ってはいない。
(荒らされている、という感じとはちゃうなぁ。揺れで崩れたって感じともちゃう。それやったら、もっともっと荒れてる筈や。同じ理由で、魚人もちゃう。あいつらは探すなんて細かいことを丁寧にやることなんて、多分、できへん。また同じように、あのむきむきシュトーレンさんでもない。……元に戻ってたなら、可能性としたらあり得る位、か……。なら、勝手知った奴が入ったんや)
コトッ、コトッ、コトッ。
ガタッ、カタッ、コトッ、カタッ――
奥の裏手の部屋に行く前に、取り敢えずはと、箱や棚などの入れ物の類を手当たり次第に開けてゆく。どれも、無駄に大きい。緩衝材などの、茶色の紙が濃密に圧縮されたような、堅く、軽い、僅かに弾力性もある梱包材だけで中身が抜き取られたものがたくさんあった。
空振り。空振り。しかしそこは慌てない。薬品を含んだ注射器は一応、割れ物だから。それ位は考えられる程度にはまだ、落ち着きを残してはいた。
(だから、あの爺さんが直接出向いてきた、ってとこやろうなぁ。あれだけの損傷や。それに、あの注射器の薬は、ここの薬や。あの爺さんが知らん筈もない。シュトーレンさんが見せてくれたように、記録も残っとったんやから。……取りに来たってことは、全快しとう、って考えた方がええ。シュトーレンさんがああなったのを見たとき、あれ、知ってるような感じやった)
ガタッ、カタッ、コトッ、カタッ。
(残って、た、か。よかったよかった。義手義足より先に、注射器が先見つかるとはなぁ)
その辺にあった、赤十字マークのついた、一辺50センチ程度の麻袋、紐付き数枚を拾い上げ、その中に少年は、梱包材ごと取り敢えず放り込んだ。
(アホみたいに時間かける訳にはいかへんけど、持っていけるもんは、持っていけるだけ持ってった方がええやろう。後のことも、考えて)
少年は見渡す限りある、棚や箱が全て開くまで、手早くそれを続けていた。




