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モンスターフィッシュ  作者: 鯣 肴
第?章 第三章 戦術者たちの淀み
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---086/XXX--- ずれる比翼の開いた裂け目

 老人から壮年まで若返った魚人の体をした男が、二人に気づかれないままと確信しつつめに掛かっている頃、その収縮の目的地、書庫の前の広場にいる二人はというと――






「きっと、できることは今何もないわ。外には出られない。下にも行けない。そんなことしたら、死ぬ、だけ」


 ()()()()()めていた。そんなところで、めていた。他にもいくらでもめそうなところはあったのに、最もややこしそうなそこでめた。


 めが決定的となったのは、リールのその言い分からだった。なぜなら彼女は、少年より後にここへ戻ってきたのだから。膨大ぼうだいな水量と圧の暴威にさらされながら。しかもそれに加えて、下層は揺れていた。激しく激しく、もう、耳なんておかしくなるんじゃないかって思う位に水ごと激しくかき回されていた。そのことを少年に伝えた。不安と、今になって恐怖を覚えつつ、伝えたはずだった。だった、のに……。


 抱き着いて、最低限の状況共有を行った後、そんなことになってしまうだなんて、想像だにしていなかった。


 どこか見えていなかった。冷静であれば、平静であれば、こんなことになるなんて、容易に分かっただろうに。分かるのだから、容易に協力して、上手いこと線引きできただろうに。調整できただろうに。


 正気ででないのはリールだけではない。二人とも、だ。


「だから、待つのよ。ここで」


 エレベーターの前、リールはかべに手をつきながら、立って、構えている。感情をあらわにするように、険しい顔をして、絶対譲ぜったいゆずらない、と言わんばかりに位置取りして、そう言った。


 その前に、2メートル位離れて立つ少年は、


駄目だめだよ、お姉ちゃん。俺らはスペアの手足も薬も、ありったけ必要なんやから。今のままの俺れらに、あいつがここに来たとき、勝ち目なんてあると思う? ここで本漁ってるだけで、見つかるなんて、そう都合よく行くなんて、俺にはどうしても……思えへん」


 リールの言い分を分かってはくれなかった。少年の言い分からも、今、こうやって、半泣きになりながら、不安で声をふるわせながらも、それでも口にしてきた。それには従えない、と。


 それは、ゆずれない、と。


 コツッ、


 距離が縮まる。凡そ70センチ。三歩の距離だった。今ので一歩分。だから、後、二歩。少年の顔から不安がすっと引いたかのよう。それはきっと、今この場の為に瞬時に固めた覚悟の現れだろう。


 冷たい顔が、無表情にリールを捉える。絶対にゆずらないという意思表示。唯一の譲歩じょうほはきっと、今このまま詰め切ってしまわないこと。


 三歩の、猶予ゆうよ。止めるなら、その間だけ、という、少年からリールへの、猶予ゆうよ。この場所に響き渡る、その、力強くも、ゆっくりとした足音が、リールの内面をぐちゃぐちゃにする。


(何で……、何で……、こんなことになっているの……。私たちは、最後になるかもしれない、二人っきりのあらしの前の平穏に、今だけはひたっていられるんじゃ、ないの……?)


 歩調は、止まらない。非常にゆっくり、しかし。確実に、動いている。


 コツッ、


 あっという間に、二歩目が終わる。わざとそれだけ遅くしてくれていると見てわかる鈍重な動き。だというのに、その間隙かんげきは、どうしようもなく短く感じられてならなかった。


(私の……せいなの……? 私が、こんなことになったから……)


 今度は、リールが目に見えて動揺した。焦点が合わないように震え始めた目線を落とし、自身の、千切れた右足側、つまり、義足接続部を見つめて、自責する。止めたければ、そんなことよりもまず、抱き着くように、しがみつくように、何としてでも、止めようとすべきなのに。


 きっと、心の中と同じように、視界も今、ぐにゃりとゆがみ波打っているに違いないのだ。


 リールも少年程ではないとはいえ、まだまだ青い。何が要であるかが分かっていない。自責よりも先に、目の前の少年の行く手をはばまなくて、どうするのだ。今こそ必死に、決死になるべきではないか。後悔なんてものは後に幾らでもできる。そういう考え方を持ち合わせており、以前から実践してきているにも関わらず、今はそれがまるで頭にないかのように、できていない。


 それでも、自身の為でなく、少年の為の心の乱れなのだから、まだましなのかも知れない。


 コツッ。


「リールお姉ちゃん」


 そう分かっているからこそ、少年は息の掛かる距離でリールに向かってそう言って、


 ドッ。


 両手を、リールの両側の壁へ、つける。まるで、捕らえられたかのようにもう、リールは逃げられない。動けない。


 ほうけた訳でもほうけた訳でもない。ただ、


(駄目だ、私……。止められ……ない。絶対に、無理、なんだ……)


 心が、屈服してしまった。あきらめてしまった。もう、駄目だめだ、って。


(だって、どうやっても、止まってくれるポンちゃんが、思い浮かば……ないんだもの……)


「待っててな。ほんま、すぐ、やから……」


 そう言って、まるで表情が罅割ひびわれるかのように崩れて、少年はこらえていた涙を流す。


 少年と自分はすれちがっていると理解している。今少年が流した涙は、自分が浮かべた感情とは違う理由で流れたものだと。


 少年が強がってそうしたのだと理解している。本当は自分自身がこちらへ泣きつきたい気分なのに温かくそう言って、無理して、ちょっと仮面が罅割ひびわれたのは、大きな喪失そうしつの経験に対する心構えとしての意味合いもあったのかも知れない。何もかも、こちらの為に、少年に背負わせてしまった負荷だ。


 これ以上更にこっぴどく失わないために、後で取り返しのつかないことで泣かない為に、そう言ってくれたのだろうが、けれど、それは、どうしようもなく肝心要が、欠けている。勘定に最初からそんなもの入っていないかのように。


(どうして、そんなことを、言うの……。どうして、そこで、泣くの……。もう、私、何も、言えない、じゃないの……。分かるもの……。私がこれ以上、止めようとして何か言ったら、そこからきっと、ひどみにくい、泥沼どろぬまに一緒に沈んでいくみたいな言い争いになるって。どうして、どうして、ポンちゃんは、ポンちゃん自身を、大事に、して、くれないの……)


 見ているものが、ずれてきている。ちゃんと、話し合って、きっちり合わせたはずだったのに、いつの間にか、ずれてきている。


(……。私は行けない。分かるもの。どうあっても行くんなら、ポンちゃんだけで行った方が、いいって……。死なないで、無事でいて、とさえ、私は、もう、言えない……。それさえも、届かなかったら、この足が、たとえあったとしても、私はまともに立ってなんて、いられないもの……)


「おね……がい……」


 ずぅぅうぅぅぅ……。


 やっとの思いで、せめて、これだけでも、と絞り出したはずの言葉は、どうしようもなく舌足らずで、無無力で……。


 かくん。


 力なくへたり込むように崩れ落ち、無造作に立った両膝りょうひざの間に首が垂れる。もう、心の中は、ぐちゃぐちゃ荒立ってはいない。音も光もなく、静寂せいじゃくとなって、ただ、寒かった。暗い海の中に、ただ、独り浮かんでいるかのような、無力。


(……)


 失意。


 だからこそ、涙すら、流れなかった。


 少年は、そんなリールをまたいで、とびらをこじ開けて、下へと、降りていった。

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