---078/XXX--- 斜め上一本線の逃走経路
足は一歩も動いていない。一歩動けば、凪は終わる。そう確信していたから。しかし、語りかけの言葉は、別。言葉が届かないなら、カウントされない。届いているなら、それは、別として、敵意とはカウントされよう筈がない。
シュトーレンは、理屈の人。そう、少年は理解していたから。しかし、違う。それは誤解だ。どうしようもなく、間違っている。シュトーレンが理屈を全てに於いて優先すらなら、どうして今、こんなことになっている? ここに三人が落ちることになるなんて、そもそも起こらなかった筈なのだ。少年には、それは、未だ、どう足掻いても、分からない。それに行き着いたとしても、そこにある理が、少年には未だ、決して、理解できない。
「……。アガァアアアアアアアアア」
ブゥン、ヒュウウウウウウウウ、ジャバァアアアアンンンンン!
激しい着水が、その質量を物語る。
「しょ、正気なんか、シュトーレンさん。返事、してやぁああああああっ!」
恐怖を抑え、少年は、水の中へと降り立ったシュトーレンに向かって叫んだ。
「……」
相手は反応を返さない。変わらず、血で滲んだ目の中、光彩をぶれるように震わせながら、それ以外は一切不動。そう。無反応。声は、届いていない。届かない。そう少年は決定付けた。それと同時にもう一つ決定付けた。
(……、保留や、保留。それしかない。それしかできへん。これ以上、抱えられるかぁ……。無理や、無理無理。だから、逃げる、他には……あらへん、のや……。けど、そうなると、やっぱり……どうやって……? それが問題や。後ろ? 無理や……。上手いこと躱して穴開けてもらったとして? そっから、あの長い距離、どうやって、逃げ切る……? もう、俺、足ついてへんねんで……。それに、息、持つんか、俺……、あっちに逃げて……)
一応、正気に戻る、という可能性は残っている。それに微塵も期待して行動するつもりにはなれない程でしかなくとも確かに。
少なくとも、今のシュトーレンは、さっきまでとは違って、放置しておいても死にそうにない。あの老人にも殺せそうにない。水に完全に漬かったって、死なず何とかしそうな程理不尽な存在にすら見える。どう見積もったって、この場所で、今まで見た中では、最強だろう、と。
(考えろ。向こうが動き出すにはまだ、時間がありそうな気がする。あと一つ、些細なきっかけできっと動くんやろう。俺が動き出す挙動さえもう、確実にアウト、やろうなぁ……。戦うなんて、……ま、無理やろな……。かなわんってのが目に見えてるわ。色んな意味で、御免やわ。逃げるっきゃないわな。それもまともに逃げるんは無理。煙に巻いたるしかない。でも、手札はない……。……何なんやろな、これ……。さっきまでより、俺、ピンチやのに。けど……、今すぐピンチなんは俺だけ。そう思ったら、何か、楽になった。シュトーレンさんはたぶん死なへん。死なへんで済んだ。ふっ、ははっ、やる気出てきた。さっきまでなんかよりもずっとずっと、何とかなりそうな気がするでぇ)
「ははっ」
ジャバッ、ゴォン!
「っ!」
むきむきシュトーレンが、一歩、大きく踏み出した。それで、また、止まった。
「……、はぁ……、セーフなんか、これ……」
汗が、溢れ出す。取り敢えずのところ、大丈夫だった、と。しかし、直観するものは変わらないのを見て、取れる行動の選択肢も回数も、小さくだが、更に狭まったのだと自覚する。冷や汗などではもうない。それはとっくに脂汗に変わっていた。
ポタッ、ポタッ、――
しかし、悪いことばかりでは、無かった。シュトーレンが一歩近づいたことによって、少年が見上げる視界は、今の立ち位置の自身の目線が、シュトーレンの顔の、頭の位置を超えて、その先、
(けど……、あった、未だ、道は。上、や)
天井に確かな道を、見つけたから。それが決して途切れていないことを少年は知っている。それが、より上層と繋がっていることを、少年は知っている。シュトーレンが今、碌に知恵が働かない状態なら、虚を突くような隙を数秒作れれば、出し抜ける。そんあ目が、何とかありそうだと、考えは組み上がったから。
もう、水は、少年の腹の辺りまで。むきむきシュトーレンの大腿の下辺りまで。
「何とか、生き延びろよ、シュトーレンさん。できたら、その後、正気に戻っておいてくれ。絶対後で、何とか、するから」
決意と覚悟の、言葉。
ジャボン、ジャボンジャボン、
むきむきシュトーレンが動き出そうとも、もう、水位は、その出鱈目な速度を封じる程度になっているのだから少年はそんなに長い言葉を口にできた。
そう言いながら、少年は水中で、竿を取り、握っていた。
無理やりに、振るう。
しゅぅぅ、シャラン、シャラン、シャララ、カコンッ!
ジャボンジャボンジャボンジャボン、
まだ、接近行動中だったシュトーレンを超え、竿の引力に引かれ、巻きつけた不可視の階段ピラミッドの頂へと、シュトーレンの横を、弧を描くように、浮かび上がり、飛んでゆく。
ゥゥウウウウ、ビチャッ!
そして、着地。
トンッ、ブゥオン!
今度は水の上だからこそ、十全に振るえる。引き抜くように引っ張り振りながら、跳ね、絡みついた糸とその先を回収し、
スタッ。
着地。そしてすぐさま、
ブゥオゥンンン、ガキィン、ガコッ、カラッ!
刺さり貫き、引っ掛かった音と、引っ張った後の手応えを確認し、竿に巻くように、糸を絡める。
その直後、少年のすぐ下を、ガゴォオンンンゥウウウウウウウ!
むきむきシュトーレンの拳が足が、通り過ぎ、砕ける。透明ピラミッドは、土台から上半分が崩れ消えた。だが、だからこそ、もう、届かない。
むきむきシュトーレンに知恵は無い。物を掴んで投げてぶつけることすら思いつかず、無意味に、水の中、ばしゃばしゃ、暴れ回る。
少年は、ひたすらに、糸を手繰り寄せながら体を浮上させてゆきながら、そんなシュトーレンをふと見て、考えた。考えてしまった。
(一人じゃあ、今のシュトーレンさんやと、こっから、脱出、できない……)
一瞬、手が止まる。しかし、再びすぐに少年は浮上を続行した。
(無理や、俺は何でもできる訳ちゃうんや。どうしようもないことだって、ある……。今のこれが……、このざまが……、そうや……。シュトーレンさん……、お姉ちゃん……、許し、て……。……)
もう、下を見向きもしない。もう無理だった。きっと、もう一回下を見たならば、力が抜けて、落ちて、しまう。そうなれば、あの老人の言った通りになってしまう。仲間同士争っての、同士打ち。それと結果変わらなくなってしまう。
やらなければならないこと。その為の痛みを伴う選択。少年はそれを放棄することなく、天井裏へと辿り着き、這うように、通路の先へ向かって、前進を始めたのだった。聞こえてくる水音と、むきむきシュトーレンが暴れているであろう音に、苦悩しながらも、止まることは、しなかった。




