---068/XXX--- 嘗て絶対であった所以
痛みを、思い出す。
老人はこの地に落とされるまで、常に、"持っている"人間だった。そして、この地に落とされても尚、この地の中という尺度の中では、まともに対峙してくる者すらいなかった。悦は無く、しかし、脅威も無く。この地に落とされるより前ですらあった些細な脅威すら、ここに来てからはなかった。
もう、とうに数えるのも止めるくらいに流れた、時。だからこそ、必要に迫られなくなった、老獪な技術の数々は錆び付いている。が、それでも構わないと今、開き直った。
(構わぬ。ここで、錆びは落とせばよい。思い出せばよい。程よく面倒、なこの小僧でのぉ。儂が最も苦手としたタイプの一つではないか。狡くなく、屈しない目をした者。せいぜい、役立たせ貰おうかのぉ。その敵意すら、のぉ)
本来の実力からすれば、梃子摺る要素なぞ微塵もないはずの相手。悩む必要もなく、最善手。少年のアキレス諠、そして、シュトーレンにとってのアキレス諠、そんな、一人の、リールという女。
即座に見極め、捉え、そこから手をつけていれば、事はもうとっくに終わらせられていた筈だ。ここでできる全て望みを形にして。
諦念に沈むこともできず、憎悪に塗れ、それらごと朽ち果ててゆく定めだった筈だった。
そんなところに、降ってきた蜘蛛の糸。そこから、手繰り寄せたのは老人自身。なれば、為すが儘に、できた筈なのだ。本来、少年たちには、一手すら、許されなかった筈なのだから。
そんなことにも気づけない。元の高みから、堕ち、知らず、耄碌。錆びには気づけども、その度合いを把握できてはいない。そうして、知らず、愚者と成り果てる。前時代に老人の生きた場所での水準で。
今の時代にあわせれば、それでも、未だ、難敵の類ということ。腐っても、元は不可侵な王者。そんな老人は、また、噛みしめるかのように愉しみ始めていた。
企み事の味を。
(嘘なくこちらを煙に巻く。あからさまな煽りじゃというのに、裏があるようにはまるで見えぬわ。じゃから、下手、じゃのぉ。それに、一つをあまりに信じ過ぎておるわ。儂は用意しておるぞ、海に遣わした、お主の女。ぶつける駒は存分に、のぉ)
息を吸うかのように、巡らせた思索は真実へと当然のように伸びてゆく。それはそんな、嵌め、貶め、破滅へ落とすかのように、思惑を武器として振り翳すすることに悦っする者。
(我が子孫は、やはり、駄目じゃのぉ。捨て身というのは、持たぬ者の術よ。それでは所詮、愚物よのぉ。この小僧は分かっておる。捨て身ではない。こうやって、無謀に身を晒しておるように見えて、見切っておる。儂が今は手を下せんことを確信した上で、立っておる)
思考は嘗ての鋭さを思い出すかのように研ぎ澄まされてゆき、
(やはり、この小僧こそ、占拠したい。稀に見る器だ。磨かれているようには見えぬ。資質だけでこれだ。末恐ろしいものよのぉ)
嘗ての心持ちを、思い出す。
遥か昔、取り返しもなく、ただ一度負けて落とされたことすら受け入れた上で、自身のここでの終わりの可能せいなんて、微塵も想像していないのだ。
自身の、変幻自在な心の在り様を思い出す。芯の中の、要以外は、前言すらも、すぐさま、曲がる、翻る、嘘になる。それこそが、辻褄だと言わんばかりに。
(我が子孫は優れてはおるが、我が毒が実った証の、命炊く呪いの肥肉。あぁも見事にあやつは気づかず、あやつの直系たる、恐らく資質から見て後継者であろうこの子孫のざま。あれでは維持して乗り換えたとて、すぐさま次の器を探さねばならぬ。ここを出れば、儂に資源は無い。齢30を超えられぬ定めの呪肉と、在野の秀才程度の頭脳の箱に、埋もれ消えるのは、正統の代価と見るにはちと足りぬわなぁ)
自身の先ほどまでの拘泥を嘲笑うかのように、思考は抱えていた答えを変質させた。
(嘲笑うが為に、先ずは陸に、上がらねば、のぉ。何、足りぬものは、それから手にすれば、良いだけではないか。あ奴おらぬ時代の地平に、儂の急所も、儂の天敵も、もう、おりはせぬのだから。)
振り向きもせず、後ろに意識を向けた。そしてすぐさま、少年に意識を集中させ、覗くように、探る。
(こやつがここにいるということは、あの女は別行動。逃げは無い。狙いは? ……、ほぅ。どうやら核心に近づいていると見える。もし、女が、この場所の栓を知って、見つけてしまったならば、見つけてしまおうとしているのならば? フォッフォッフォッフォッフォッ、そこよのぉ。そこまで、よのぉ。底はやはり、そこじゃったか。なら、取るに足らぬわ。差し向けたあやつらが、遅れを取る筈があるまい、が、ここにおるこやつ自体は次善を用意せぬ輩でもあるまい。それ、一摘み、といったところか。摘んで、やろう)
「小僧。知っておるか。復讐者というのは、熾烈なものじゃ。どれだけ忠実であろうと、どれだけ温厚であろうと、そんな在り様を、その変質は塗りつぶしてしまう。お主に敵意も殺意も向けず、こうやって、構えていられはせぬ。復讐。それは意思じゃ。こやつらは木偶。それであろうとも、そんな単純なやり返しの意思位は生む仕組みは持っておる。中でも出来の良い者であるならば、抱くそれの強度も、熱量も、殊更、じゃ。恐怖位、容易に押しつぶすじゃろうて」
老人がそう、少年に語り掛けると、少年は明らかに反応を返した。無言ではあったし、表情に変化はなかったが、抑えることができずに流れ始めた冷や汗が答えだった。老人は追い打ちをかけるかのように、こう、締めくくった。
「で、じゃ。そやつらは果たして今、何処におるのじゃろぅ、のぉ」
そう、悪辣に、悪趣味に、見下ろすように、眺め、笑い声も上げずに、愉悦を浮かべた。




