---067/XXX--- 一刺しは掌の中
少年は、来いよ、と、老人に顎先で挑発してみせる。
彼女へ別の役割を託し、老人と魚人達の前に出るという、一見無謀で危険な、本来そんなことする必要無さそうなことを少年がした理由。それは、無理を通すため。そして、それがどうしても必要なため。
障害はあと2、3。活路を見出すには、老人に隙を作って貰う必要があった。少年は遅ばせながらに気づいたから。待っているだけでは、分が悪くなるのはこちらの方だ、と。
刺されば、それで解決だ。勝てる。そう少年は確信している。だからこそ、今まで待っていた。その起死回生の手段の効果は、一度、自身の体で体感しているからこそ。
そして、もし、そんな策が不発に終わったとしても、こうやって対峙したことには効果がある。これはある意味、相手にとって最もされたくない対応の一つだから。
相手にしてみたら、こうだ。怪我の一つどころか、体力精神共に損耗すら無く、何か目論見を持って、姿を現し、その上、狙いの核、その半分は悟られている。
なら、相手は? 動き出す筈だ。動き出している筈だ。相手ももし、望んでいるのが時間で、その目標の時間までのスパンが、制御の自身の元への回帰以外にあるのだとしたら? リールの方にさいた人手が申し訳程度のてきとーな数体ではなく、先鋭、そう、あの時、自分たちを襲った魚人程の屈強なのが差し向けられていたのだとしたら? 本当に、自由意志に任せて動いてもらうことが可能な手下がいないと断定できるのか?
そもそも、相手の狙いが、制御を取り戻すまでの時間なのだとしたら、本来、姿をこうやって現す必要すら、待ち構えている必要すら、無いのだ。
(あかん、かぁ。じゃ、こっちから崩れた振りしてみるか)
相手は、愚かで、木偶のように突っ立って、何も考えないような、甘い相手では断じてないのだから。
「ぎりりり、ちぃぃっ!」
歯ぎしりから舌打ち。少年の今のそれは演技ではない。少年はそれを演技と思っているが、決して演技などではない。それは本心だ。押さえ付けていた、口にしたい、怒号のような言葉だ。ただ、ひととき、我慢をやめ、思うがままに吐き出しただけ。
「何であんたらは俺らを襲ってるんや! 殺すわけでもない。食うわけでもない。何がしたいんや。そも、体が欲しいっていうんなら、それを壊すような雑な狩りは一体何なんや」
そう。溢れだしたのは、疑問。だから、ばれるなんてことはない。隠してなんて、いないのだから。今この時口にしたことには裏なんて無いのだから。
少年の上手いのは身の振りと場に合わせた言葉であって、嘘偽りによる詐術では無いのだから。
(耄碌したものよのぉ、儂も。劣化しておる。儂の儂としての最適な使い方が、なぞれぬ。嘯きなど、息をするようなものじゃった筈ではないのかのぉ?)
老人は、目の前のただの甘い時代の愚かしい、取るに足らない筈のガキに内心苦虫を噛みしめたかのような思いを抱きながら対峙していた。
そのガキは、時折、考え込むような一瞬の間の後、こちらが曲げた流れを強引により戻してくる。
だから、そんなガキな少年以上に余裕を持ち、揺らぐ様子もない老人の内心は焦りで溢れそうだった。当然だ。自身のこの場所での絶対性を担保する権が、今、掌の上にはない。
(儂は、儂は、これ程までに、無力に、錆び付いたと、言うのかぁぁ……。これでは、これでは、相応しくないではないか! 間違いを、正せないではないかっ! 目論見通り、この永劫の檻から抜けさせたとしても、何も、取り戻せは、せんではないかっっ! 儂しか知らぬ、儂の女、ベリーの無実、儂が、晴らさんで、何になるぅぅっ!)
その上、強い想いがあった。唯の邪悪故に落とされたのではないのだから。ただ、嘗て、どうしようもなく、負けたのだ。尤も、それらについてはここでは断片的にしか語られない。断片を補完し、全容を明かすことも今後ない。
(ベリー単独では、やはり、至らんかったのじゃから。じゃからこそ、我が子孫は、我が呪詛を発現しておる。彼女の系譜は、含まれておらんなんだ。なれば、我が子も、あぁ、我が子も……、かき消されたのじゃろう、な。名を呼ぶ権利は、もう、儂には、無い……。本来なら、こうやって、ベリーの名を心の中で口にすることすら、許されはせぬのだ。敗者に、権利何ぞ、ありはしない)
それは既に、終わった話。老人が、過去の亡霊に過ぎないことの証明に過ぎない。
(それでも、負けたのは、儂だけじゃ。ベリーは負けた訳では決してない。名誉だけは、回復させることはできるじゃろう。儂が、錆びていなければ、な。まさか、儂の土俵で、十八番を、我が子孫に奪われるとは、のぉ。彼女の狡猾さと柔軟さを捨てた愚かな一族の血だけを継ぐ我が子孫に、のぉ……)
想定していなかった、自身の子孫による、手痛い反撃。それによる、これまで忘れていた、どうしようもない不自由さを、老人は、思い出すかのように自覚した。




