---060/XXX--- 札伏せて向かい合って
(っ……)
ザサッ。
(お誂え、やな)
少年は足を止めた。そして、見上げる。目の前に現れた階段ピラミッドのような白い構造物が。その頂は正方形の平らな領域になっていた。その中央にある、一辺1メートル程度の立方体が。
少年が見上げ、睨みつけている先はそこだ。そこの上にふんぞりかえるように座っている者がいるから。
人の形に獣の皮のケロイドを皮膚として纏ったような獣人のようなクリーム色で毛むくじゃらの、しかし、あのホログラムの容貌をどこか残したような崩れた顔の、老人が、そこには、いた。
(けど、隙アリ、や。一人でそんなとこでふんぞりかえって見下して油断してるんが運の尽きや!)
少年は、この機を逃すまいと、一歩、二歩、そして――
スッ、トッ、
すぐさま、止まった。
ザァァ……。
思いっきり踏ん張って、駆ける足を止めた。流れる冷や汗。再び後ろ手に切り札を構え、ぎりり。少年は歯ぎしりして、老人の方を見上げた。
「惜しい、のぅ。あと数歩、じゃったというのに。フォッフォッフォッフォッフォッフォッフォッ」
ひしがれた声が響き渡る。
つい今の今まで、何もいなかった空間、階段状の台座周囲。そこを幾重に囲うように敷かれた、魚人百体程度の陣が突如、少年の視界に飛び込んできたから。
そして、何より――
(ちぃぃぃっっ……! くそぉぉっ、当然やんか、俺ぇっ! 最初から気づいとけやぁ、俺ぇぇっ!)
老人の後ろに老人の後ろに現れていた石のベット。その上に転がされた、変わらず瀕死で意識のないシュトーレンが目に映ったから。
(……。気づけた……筈なんや……。その筈やのに……、何でや……。読めなかったんが当たり前みたいに思ってるんや、俺は……)
そう。ヒントはあった。急いで、少年はそれに気づかなかった。気づけなかった。気づこうとしなかった。
それは、モンスターフィッシュたちが向ける、一方向の、常に全力の猛烈な悪意無くも敵意ある敵対とは種類が違うから。
少年は、敵意には非常に敏感であっても、悪意に警戒する必要なんてこれまで必要なく生きていたから。
相手は老獪。これまでとは比較にならない程に。そう。甘くはない。それは少年にとって、自身へと標的を定め、子供だということを無視して明確に、悪意を以て敵意振るう初めての人間だから。そう。少年は単に、慣れていないから。未知だったから。
あの村の大人たちが自分に向けたものと、自分の両親や祖父母に向けたもの。その違いである。
意外なことかも知れないが少年は、人の悪意を真正面から受け止めたことはこれまで一度もない。
かの島で、少年は冷遇されてはいたが、排除されなかった。彼の両親はあっさり排除されたにも関わらず。少年は排除されなかった。精神的には傷つけられたが、肉体的には損傷はないし、傷つけられた精神も、螺子曲がってどうしようもなく冷酷で悪辣に捻くれてなんて全くない。
少年の生来の気質や才に依るところも大きいとはいえ、少年を明確に狙いを定めた悪意を向けられてはいなかった。向けられないまま、今の今まで生きてきてしまった。
どれだけ根が真っすぐであろうとも、執拗に、徹底的に、逃げ場なく、延々と、果て無く、悪意を浴びたなら、真っすぐではいられない。そういった悪意は、真っすぐであることを許さない。許すのは本物の聖人くらいだろうが、その場合、そんな聖人は、生を奪われるだろう。悪意は絶対的に成果を求めるから。無意味であることを決して許さないから。
「どうした? 先ほどまでの勇ましさは何処へなりを潜めたのかのぉ?」
老人は少年を見下ろし、真っ直ぐ、見据えている。老人はそして、少年に強調するように、意識させるように、首で合図する。自身のその真後ろを。間抜けめ、と。
老人の後ろに現れた石のベットの上で、動かぬ、昏睡状態らしいシュトーレンが、応急処置すらされず、置かれている。正確には、違う。辛うじて死なない寸前に処理されている。維持されている。留まらされている。
そう。まだ、生きている。時折、ぴくりとその全身が痙攣している。今にも死にそうで、もうとっくに死んでいなければおかしい筈な状態だと一目で分かるのに、まだ死んでいない。
ガンッ。
「くそぉぉぉっ」
少年は苛立ちとやるせなさを足踏み一発で堪えながら、そんな整えられた場を少年は見極めようとしていた。一体どこのどこまで読まれているのかを。
(あかん……。この爺さん自体からは、まるで読めへん……。どうして、目の奥に何も映らへんのや……。どうして、表情に意図が浮かんでへんのや……)
老人の目を表情からは読み取れなかった。少年にとって、それは初めての経験だった。きっと、この先慣れてゆくだろうが、今はまだ、未知故に悪意の意味を少年は知らない。
それでも、足掻いた経験は数えきれない。どうしようもない理不尽も知っている。だから、悪意という未知に遭遇したからといって、そこで詰みはしない。自身が最も頼り切っていた能力の一つが通用しなかったとしても。
(なら、考えるだけや。答えが出るまで。何としても、や。お姉ちゃんが俺の役目やっても、そうしてる筈やし、お姉ちゃんも今あっちで必死にやってくれてる筈なんやから)
「シュトーレンさんは、ちゃんと、生きとるんやろうなぁぁぁぁっ!」
子供にしては低く凄みを聞かせた声で少年は老人に尋ねた。分かり切った質問だ。当然時間稼ぎであって、しかし、それでいて有効なやり方だった。その場凌ぎではなかった。狙いがあった。
相手が待ち構えていた。相手は伏せ札を表にしたというのに攻めてこなかった。だからこそこうした。
相手の仄めかしから相手の望みを読んだだけだ。相手は遠回しに回りくどくではあるが、隠さず提示していた。だから少年は気づけた。
それに、分かり切っていてその上答えやすい質問というのは、会話を円滑にする。そう。相手が望んでいるのは、会話だ。
人との、そう。意思ある者との、会話。人だからこそ有効な、時間稼ぎの手段。
 




