第二百八十話 裏か表か 後編
「はぁ……。じゃあ、言うが、がっかりしないでくれよ」
切り出す直前のそんな反応から、何か不味いこと、という訳ではないと知り、ちょっとばかり座曳は安心する。
「ええ。それはないですよ。私なんてもうさんざん生き恥晒してるんですから」
だから座曳はそんな風に、素直に口にした。
「じゃあ、言うぞ。一応言っておくが、変に口を挟むなよ。それと話し終えても質問は無しだ。それでもいいか?」
妙な躊躇とそのくどさにも特に気を留めなかった。
「構いませんから早く言ってください。夜も更けてしまいますよ」
そして、
「はぁ……。あの少年だよ。リールちゃんの婚約破棄の後に消えた、釣一本というあの新入りだ」
男の口から出たのは、現在も行方不明のままの、あの少年の名だった。
「良くも悪くも、ポンさん、ですか」
「あんただってその口だろう?」
「おや? そうですか?」
「東京フロートでのあの結婚式での奪還劇。あんたはあれ通して別のもの見てただろう? 過去を語らない、何処からか流れてきた毛並みのいい割りに、根性があるのに、何か諦めたような目を時々するあんたが、あのときしていた目は全く別のものだったよ」
「……。えぇ……。でも、後悔はありませんよ。諦めるしかなかった筈のものを、掬い上げられたのですから。だから私は、貴方たちに、謝りはしても、人生賭けてまで詫びはしない訳ですから」
「あんたらしいことだ。割り切りの良さはこの船の中でも随一。そういう常人なら必ず負い目を背負うところで。俺にゃぁ無理だ。あんたほど滅茶苦茶やった後、そんな心地では絶対いられない」
そう言って男は目を瞑る。
船がセンカンソシャクブナに飲み込まれる少し前。慌ただしい船内。
声を掛けてきたのは、新たに船に乗り込むこととなった少年。それは何気ないようでいて珍しい質問だった。
『あの、船長の声が船全体に響き渡ってるみたいですが、あれ一体どういう仕組みです?』
緊急事態。急がねばならない。しかし男は、少年に説明した。
何故かという理を問うが為の質問。本質に迫る為の質問。そういった質問をするような者は、生き急いだような者たちばかりのこの船では珍しい。技師でもなくそちら方面の造詣がある訳でもなく、その少年は純粋な興味と疑問から尋ねたのだと、そのとき見せた瞳が物語っていた。
好奇心に溢れ、無垢でいて、何かに執着する訳でもないのに、本当に何にでも興味を持っているようで。
それが男の心を打った。それがどうしてかとても眩しく見えた。その様子は、クーを相手にしたときに感じる眩さと似たものがあった。他の自分に特別懐いている一部の船員たちの目に籠もる熱と同じ種類の熱だった。
それは、男が最近感じる悩みでもあった。どうしてそれらがそんなにも眩く見えるのか、と。
そして、船が飲み込まれて、あの腹の中の島での一件が片付き、やり遂げた余韻に皆が浸っているまでの経過から、答えは出た。
一本の心から泣いて笑っての全力で事を為して、助けた誰かが為に喜び笑い、心底楽しいと思う様子。
羨ましいと思った。
羨ましい。それこそ、答えだった。つまりそれを自身は持ち併せていないのだ、と。厳密には、ある。しかし、人を介さない。そこは自分一人しかいない。あるのは、人でなく物だ。自身と、乗っている船。それだけだ。
自身が船に乗る決め手となった、その特異な船を維持する為の栄養を与えることができる資質。それに向けた、強い愛着。まるで、唯一無二の親友、かけがえのない恋人や配偶者、自身の分身である実子、などなどといった存在に向けるような大きく強い気持ちを意図するしない関わらず、船に向けられること。
そんな資質があると分かってしまった、乗員となった日から、ずっと疑問はあったのだと自覚する。そして、釣一本という少年の、何にでも興味がありつつも、人に向けた異様なほどの、分け隔ての少ない、強い興味。それを見せつけられて、確信した。
男はその船の船長になりたかった理由に、そのような少年がいることを乗せることが自分にはできていないとふと気づいてしまった。船が飲み込まれた後、心配した範疇には、その少年のことなど微塵も出てこなくて、ただひたすらに船のことだけだったのだから。
何故か、これまで自覚してこなかったそれを、自覚した。不意にさせられた。しかし、妙に納得いくものでもあり、抱えていた違和感は消え去った。だから、悩みの正体は明らかになったと共に、解決した。
そうなれば、船長の資格はいらない。いや、持っていてはいけない。自身と同じ志を持つ人を束ねる資格はあろうとも、数多の多種多様な意思を纏めて率いる資格は、無い。
それをそのまま船長に口にして、納得され、そのとき、言われたこと。
『他の奴らもとうに気付いてるぜ。お前自体が一番最後だったんじゃねぇかな? だがよぉ、それでもいいと言ってくれる奴らがお前にはいるんだ。そのことだけ、覚えておいてくれ。何、心配すんな。俺の次はお前とは別にも用意してある。お前には言っておいていいかもしれねぇな。それはなぁ、座曳、だ』
目を開く。
「いや、釣一本のことは唯のきっかけだった。最初から分かっていた。俺が好きなのは人でなくて船だ。船が親友で、船が恋人で、船が我が子。つまり、俺は、人を自分の好きなものの上に置ける奴らが羨ましかったんだ。それに、そんな奴が船長なんて、船も許してくれないだろうよ。顔向け、できねぇよ。なっ」
そう言って、笑ってみせる。しかしそれは、とても寂しそうな笑みでもあった。そこで悲しいと思えてしまうところが、この男の魅力であり、この男の歪なところでもあった。
「そんな貴方だからこそ、私たちは貴方を認めているんですけどねぇ」
そう、座曳は心からの言葉を返すのだった。
「では、私はそれで。もう、日が、登ってきそうですし」
カタッ。
そう言って、座曳は椅子から腰を浮かせた。
船長としての資格云々の下りが終わった後も、それなりの時間、話さなければならないいくつかの話があったため、話は続いて、夜も更ける頃になって、座曳はそう切り出したところだった。
これは座曳が望んだ時間であったからこそ、相手が眠気故に終わりにしようとしない限り、終わりを提案するのは座曳の役目だった。
「ちょっと待て。俺からも、あんたの話を聞いて、一つ言っておきたいことがある」
だからそんな風に言われたら、
「何です?」
当然、再び腰を下ろす。
「座曳船長と合流する前に、もしもあんたが死んでしまったり、はぐれてしまうことになった時のことだ」
そう言われ、座曳はびっくりした。何故終わった話であるそれを蒸し返すのだ、と。
「あぁ、確かに……。一応、結にでも後は頼もうと思っていますし、それでも駄目なら、そこまでは責任持てない、ですかね。そこまでしか考えられていませんが、そもそも、正式な船長でない私がそれ以上決めるのも何だかなぁ……というところなんですよ。ですから、貴方に船長役を打診しようと思ったのですが、言う前にフラれちゃいましたから」
と、座曳が溜め息混じりに言うと、
「そのことなんだが、」
ゴソゴソッ、トンッ。
男は何やらポケットをまさぐって、握り、机に手を乗せ、開き、置いた。
「金貨、ですか?」
それは、直径3センチ程度、厚さ1ミリ程度の金貨だった。




